縁側の窓を少しだけ開けると、秋の風がするりと部屋に入り込んできた。
夏のあいだ、あんなに重たかった空気が嘘みたいに軽い。乾いた草の匂いと、どこかの家で焚いているお香のような、ほんのり甘い香りが混ざっている。
「ふみ」
足もとで、小さな声がした。
マンチカンのむぎは、短い脚をちょこちょこ動かして、窓辺までやってくる。胴は長いのに、脚はびっくりするほど短い。歩くたびに、ふわふわの毛並みが波のように揺れる。
むぎは窓枠にひょいと前足をかけた。届かなかった。もう一度。やっぱり届かない。三度目でようやく、後ろ脚で立ち上がるようにして、窓の外をのぞき込んだ。
その背中に、わたしは思わず笑ってしまう。
「ちゃんと見えてる?」
むぎは振り返りもせず、耳だけをぴくりと動かした。見えているらしい。
庭の向こうには、古い柿の木と、名前も知らない背の高い木々が並んでいる。そのてっぺんが、風にあわせてざわざわと鳴っていた。
波の音に似ている、と思う。でも海よりずっと静かで、ずっと近い。葉と葉がこすれ合って、ささやき声のような音がする。ときどき、ひときわ強い風が吹くと、ざあっと大きなため息のように揺れて、黄色くなりかけた葉が数枚、ひらひらと空へ舞い上がった。
むぎの瞳が、まんまるになった。
ひらり、ひらり、と落ちてくる一枚の葉を、首ごとゆっくり追いかける。葉が右に流れれば右へ、ふっと失速すれば、息をのむみたいに身体を低くする。
しっぽの先だけが、ゆらゆら動いている。飛びかかるほどじゃない。けれど、無関心でもいられない。そんな、ちょうどいい距離感の好奇心だった。
「行ってもいいよ」
そう言ってみたけれど、むぎは動かなかった。たぶん、見ているだけで十分なのだ。
わたしはマグカップを両手で包んで、むぎの隣に腰をおろした。紅茶の湯気が、風にほどけて消えていく。
今日は、特別なことは何もない日だった。
朝は少し寝坊をして、洗濯物を干して、近所の八百屋さんで栗を買った。夕方になれば、台所でそれを茹でるつもりだ。それだけ。
それだけの一日が、こんなにも満たされているのは、きっと秋風のせいだ。そして、隣でのんびり外を眺めている、この小さな生きものがいるからだ。
ざわ、ざわ、ざわ。
木々の声が、遠くから近づいて、また遠のいていく。
むぎがゆっくりとこちらを向いた。琥珀色の目が、細くなる。そして、わたしの膝にぽとりと前足を乗せると、短い脚で器用によじ登ってきた。
「重たいよ」
そう言いながら、わたしは動かない。動けるわけがない。
膝の上で、むぎは二、三度くるりと回って、すとんと丸くなった。やがて、ごろごろと喉が鳴りはじめる。その低い振動が、膝から胸のあたりまで、じんわりと伝わってきた。
風の音と、喉の音。
ふたつの音が重なって、まるで古い子守歌みたいだった。
窓の外では、夕方の気配をふくんだ光が、木々の葉をいちばん上から金色に染めはじめている。柿の実がひとつ、橙色に光った。
ふと、思う。
幸せというのは、案外こういうものなのかもしれない。大きな声で誰かに伝えるようなものではなく、風が通りすぎるときに、ふと気づく程度のもの。気づかなければ、そのまま過ぎてしまうもの。
でも、気づいた人の胸には、ちゃんと残る。
膝の上のあたたかさを確かめるように、わたしはそっと、むぎの背中を撫でた。毛並みは、陽だまりの匂いがした。
ざわ、ざわ、ざわ。
秋風は、今日も木々をゆらしている。
むぎは眠ったまま、小さくしっぽを揺らした。
その夢の中にも、きっと、同じ風が吹いている。
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