十月の終わりに近い朝、わたしは理由もなく海まで歩いた。
駅から続く坂道を下りきると、潮の匂いが急に濃くなる。夏のあいだあれほど賑やかだった砂浜は、すっかり静けさを取り戻していた。パラソルも浮き輪も、はしゃぐ声もない。あるのは、白く乾いた流木と、昨夜の風が運んできた小さな貝殻と、ゆっくり満ち引きをくり返す波だけだった。
その砂浜の少し先に、ひとつの背中があった。
猫だった。それもずいぶん大きな猫だ。ふさふさした長い毛が、海風にやわらかく揺れている。茶色と灰色の混ざった縞模様に、胸もとから首にかけてたっぷりとした白い毛。耳の先には、小さな房のような毛がちょんと立っている。メインクーンという種類だと、すぐに気づいた。
猫は砂の上にきちんと座って、まっすぐ海のほうを向いていた。
わたしは声をかけなかった。足音も、できるだけ砂に吸わせるようにして歩いた。なぜだかそうしなければいけない気がしたのだ。その背中が、あまりにも静かだったから。
波が寄せる。
白い泡がするすると砂をなめて、ほんの少しだけ猫の足もとに近づく。そして、名残惜しそうに、また沖へ帰っていく。
猫は逃げない。かといって、波を追いかけることもしない。ただ、しっぽの先をゆったりと砂に預けたまま、寄せては返すその動きを、じっと見つめている。
大きな背中だった。丸みのある肩のあたりには、秋の朝の淡い日差しが降りていて、毛の一本一本が金色の糸のように光っていた。けれどその背中は、堂々としているというより、むしろ穏やかだった。何かを待っているようでも、何かを手放したあとのようでもあった。
わたしは少し離れた流木に腰をおろした。
ポケットには、朝からずっと握りしめていたスマートフォンが入っている。画面を見れば、返さなければいけない連絡や、片づけなければいけない用事が、きっとまた溢れてくる。そう思うと、取り出す気にはなれなかった。ポケットの中で、それはただの小さな重みになった。
波の音は、思っていたよりもずっと低くて、やさしかった。
ざあ、と寄せて、すう、と引く。
その間隔は一定のようでいて、よく聞くと少しずつ違う。ほんの少し長い波もあれば、ためらうように短い波もある。同じ海なのに、ひとつとして同じ波はこない。それなのに、まるで呼吸のように、ちゃんと続いていく。
ふと、猫の耳がぴくりと動いた。
遠くで海鳥が鳴いたのだ。猫はほんの少しだけ首を傾けたけれど、振り返りはしなかった。視線はすぐに波へ戻る。鳥の声も、風の音も、背後にいるわたしの気配さえも、この猫にとっては海の一部なのかもしれない。
そう思ったら、肩のあたりから、ふっと力が抜けた。
わたしはいつから、こんなふうに何も考えず、ただ何かを見つめるということをしなくなっていたのだろう。
何かのためでもなく、誰かに見せるためでもなく、ただ波を見る。ただそこにいる。それだけのことが、こんなにも贅沢だったなんて。
陽がすこし高くなって、海面に光の粒がこぼれはじめた。
寄せる波の先端が、きらりと透きとおって、すぐに砂へ溶けていく。そのたびに、猫のしっぽの先が、ごくわずかにゆれた。眠っているのか、考えごとをしているのか、それとも、ただ満ち足りているだけなのか。後ろ姿からは、何ひとつ読みとれない。
けれど、読みとれなくていいのだと思った。
言葉にしなくても、そこにある静けさは、確かにわたしの胸のなかまで届いていた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
波は変わらず、寄せては返していた。わたしの呼吸は、いつのまにかそのリズムに重なっていた。吸って、吐いて。寄せて、返して。胸の奥にずっと絡まっていた糸が、一本ずつ、ほどけていくような感覚があった。
やがて猫はゆっくりと立ち上がった。
大きな体をひとつ伸ばして、ふわりと尾を揺らす。そして一度も振り返ることなく、砂浜の向こうの防波堤のほうへ、のんびり歩いていった。足跡が、点々と砂に残る。その足跡のそばまで、またひとつ波が寄せて、そっとなぞって消した。
猫の姿が見えなくなっても、わたしはしばらく、その場所を見つめていた。
海は、何ごともなかったように、ただそこにあった。
立ち上がると、砂が靴のなかでさらさらと音を立てた。
帰り道、坂をのぼりながら、一度だけ振り返った。朝より少し青くなった海が、静かに光っていた。
ポケットの中のスマートフォンは、まだ重たかったけれど、不思議と、さっきまでほど怖くはなかった。
海辺の秋は、急がない。
寄せては返すその音のなかに、わたしはあの大きな後ろ姿を、いつまでも思い出していた。
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