日が沈んでしまうと、秋の夕方は急に静かになる。
縁側の向こうの空は、さっきまで柿色だったのに、いつのまにか藍色に溶けていた。私は湯のみを両手で包んだまま、その色が濃くなっていくのをぼんやり眺めていた。
軒先には、夏のあいだ吊るしていた風鈴が、しまい忘れたまま下がっている。ガラスの縁に薄く埃が積もって、短冊も色褪せていた。
そのとき、ちりん、と鳴った。
風はほとんどなかったのに、と思って顔を上げると、縁側の端に大きな影が座っていた。
メインクーンだった。
ふさふさの毛並みが夕闇のなかで銀色に縁どられていて、耳の先の長い飾り毛が、風鈴の音に合わせてわずかに揺れている。いつからそこにいたのか、私にはまったくわからなかった。足音ひとつ立てなかったのだ。あの大きな体で。
「……お邪魔してます、みたいな顔やな」
声をかけると、猫はゆっくりとこちらを向いた。琥珀色の目が、薄明かりをすくうように光る。逃げる気配はなかった。それどころか、堂々と、というより悠々と、縁側の板をのしのし歩いてきて、私の隣にどさりと座った。
ずっしりと重い。座布団がひとつ増えたみたいだった。
ちりん。
また風鈴が鳴った。猫は尻尾を一度だけ大きく揺らして、その音のするほうを見上げる。風が通り抜けた気配が、遅れて私の頬にも触れた。ひんやりとして、金木犀の甘い香りをほんの少し運んでくる。
しばらく、二人で黙っていた。
一日の終わりというのは、不思議なものだと思う。朝からあれをしなければ、これも片づけなければと追い立てられていたはずなのに、日が沈んだ途端、全部が「もう明日でいいよ」と言われているような気分になる。
今日の私も、いろいろあった。うまくいかなかったことも、言いそびれたことも、帰り道に何度も思い返した。けれど、隣で喉をごろごろ鳴らしている大きな生き物を見ていると、そういうものがだんだん小さくなっていく。
猫は、何も考えていないように見えて、きっといろんなことをわかっているのだろう。
そっと手を伸ばして、背中を撫でてみた。毛は驚くほど柔らかくて、指がどこまでも沈んでいく。猫は目を細めて、ゆっくりと瞬きをした。猫が安心している相手にだけ見せる、あのゆっくりした瞬きだ。
私も、同じようにゆっくり瞬きを返してみた。
ちりん、ちりん。
風鈴がふたつ続けて鳴って、虫の声がそれに重なった。草むらでコオロギが鳴いている。遠くの家の窓には、ぽつぽつと灯りがともりはじめていた。夕飯の支度の音も、かすかに聞こえる。
ああ、この時間のために、今日が終わるのかもしれない。
そんなことを思った。
どれくらい経っただろう。湯のみはすっかり冷めていた。空には細い月が出て、庭の柿の木に淡い影を落としている。猫はいつのまにか私の膝に前足をかけて、半分眠ったような顔をしていた。
「そろそろ、うちの子になるか?」
冗談めかして言うと、猫はふっと目を開けて、私をじっと見た。それから、返事の代わりのように、ちりん、と鳴る風鈴のほうへ顔を向けた。
その横顔は、答えをはぐらかしているようにも、すべてを受け入れているようにも見えた。
結局その夜、猫はしばらくして、ひらりと縁側から庭へ降りていった。振り返ることもなく、闇の中へ銀色の尻尾が消えていく。私はそれを追わずに、ただ見送った。
風鈴はしまわないことにした。
また鳴る夜があるかもしれないから。そしてその音のそばには、きっとあの大きな影が、何食わぬ顔で座っているような気がするから。
ちりん。
秋の夜の静けさのなかで、小さなガラスの音が、いつまでも耳の奥に残っていた。
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