2026年10月12日月曜日

茜色の空と屋根の上をゆっくり歩く黒猫

茜色の空と屋根の上をゆっくり歩く黒猫

 夕方の五時を少し過ぎたころ、窓を開けると、空がすっかり茜色に染まっていた。

昼のあいだ張りつめていた青は、いつのまにか溶けるようにほどけている。西の端は燃えるような橙で、そこから頭の上へ向かって、薄い桃色、藤色、群青と、ゆるやかに色が重なっていく。誰かが空という大きな紙に、水で薄めた絵の具をそっと流したみたいだった。

向かいの家の屋根瓦は、夕日を受けて鈍い金色に光っている。その上を、ゆっくりと、何かが動いていた。

黒猫だった。

艶のある毛並みが、茜色の光の縁取りをまとって、まるで影絵の主役みたいに浮かび上がる。猫は急ぐ様子もなく、瓦の一枚一枚を確かめるように、肉球を静かに置いていく。しっぽだけが、ゆらり、ゆらりと、振り子のように揺れていた。

私は思わず窓枠に頬杖をついた。

今日は朝から、小さなことがいくつも重なった日だった。電車は少し遅れ、返事を待っていた連絡は来ず、昼に買った弁当は、なぜか思っていた味と違った。どれも大したことではない。けれど、そういう「大したことのないもの」が積もると、人は案外、静かに疲れてしまう。

猫は屋根の真ん中あたりで、ふと足を止めた。

そして、空を見上げた。

金色の目が、夕焼けをそのまま映している。何を思っているのかは、もちろんわからない。ただ、その横顔があまりにも穏やかで、私は息をするのを忘れていた。猫は誰にも見られていないつもりなのか、それとも見られていることを承知のうえなのか、まるで世界にこの屋根しか存在しないような顔で、ゆっくりと瞬きをした。

遠くで、どこかの家の夕飯のにおいがする。煮物の甘い匂い。自転車のベルの音。子どもを呼ぶ誰かの声。

世界は、ちゃんと今日の終わりへ向かって、いつもの顔で進んでいる。

猫がまた歩き出す。煙突の影をまたぎ、瓦の波を渡り、屋根の端にたどり着くと、そこでくるりと丸くなった。茜色の光が、黒い背中を縁取る。呼吸に合わせて、小さな体がわずかに上下している。

私は気づくと、肩の力が抜けていた。

あんなふうに、急がずに歩けばいいのかもしれない。うまくいかない日があっても、足元の瓦を一枚ずつ確かめるように、今日の分だけを歩けばいい。空はこんなにきれいに、一日の終わりを飾ってくれるのだから。

やがて、茜色は少しずつ深い藍へと移っていった。最初の星が、屋根の向こうに小さく灯る。

猫はまだそこにいた。

私は窓をそっと閉める前に、小さく声に出した。

「おつかれさま」

黒い耳が、ほんの少しだけ、こちらへ動いた気がした。


茜色の空は、毎日見られるのに、毎日ちがう顔をしています。今日の夕方、ふと顔を上げてみると、あなたの屋根の向こうにも、ゆっくり歩く誰かがいるかもしれません。

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