十月の終わりに近い朝、私は小さな海辺の町に降り立った。
無人に近い駅の改札を抜けると、まず鼻先をくすぐったのは、潮の香りだった。夏の海のような、じっとりと重たい匂いではない。秋の潮は薄く澄んでいて、冷えた空気の中をすっと通り抜けていく。深く吸い込むと、胸の奥に溜まっていた何かが、ひとつ軽くなった気がした。
地図は持たなかった。ただ、香りの濃いほうへ歩けばいい。そう決めて、駅前の細い道を下っていく。
町は、ゆっくりと目を覚ましているところだった。軒先に干された魚の開きが風に揺れ、古い民家の窓辺には、色褪せた貝殻が並んでいる。自転車を押した老人が「おはよう」と短く言って、私の横を通り過ぎた。知らない町で知らない人に挨拶をされるのは、いつだって少し嬉しい。
坂を下りきると、道は海沿いへと続いていた。
片側には低い石垣、もう片側には、秋の光を細かく砕いたような海が広がっている。波は穏やかで、寄せては返す音が、一定の呼吸のように聞こえた。石畳は潮風にさらされて白っぽく乾き、ところどころに、小さな貝の欠片が埋まっている。
この道が、潮の香りの源だったのだ。
私はゆっくり歩いた。急ぐ理由は、もうどこにもなかった。
そのとき、石垣の上で、何かが動いた。
黒猫だった。
艶のある毛並みは、朝の光を受けて、墨を流したように深く光っている。金色の瞳が、じっと私を見ていた。逃げるでもなく、近づくでもなく、ただそこにいて、私という来訪者をひとしきり眺めている。
「おはよう」
小声で言うと、黒猫は短く尻尾を揺らした。返事のつもりだったのかもしれない。
猫はひらりと石垣から降りると、私の少し前を歩きはじめた。案内をしてくれるわけではないのだろう。たまたま行き先が同じだっただけだ。それでも私は、その背中についていくことにした。
黒猫は、時折立ち止まって振り返る。私が追いつくと、また歩きだす。その繰り返しが、不思議と心地よかった。誰かと並んで歩く安心感に、言葉はいらないのだと、猫の背中が教えてくれる。
道の途中に、小さな船だまりがあった。
色の剥げた漁船が数隻、静かに揺れている。縄の匂い、乾いた木の匂い、そして潮の香り。それらが混ざり合って、この町だけの空気になっていた。
黒猫は、防波堤の端でぴたりと足を止め、海のほうを向いて座った。
私も隣に腰を下ろした。
風が、そっと頬を撫でる。遠くで、カモメが一声鳴いた。水平線のあたりには、薄い雲が刷毛で掃いたように伸びていて、その下で海は、銀と青のあいだの色をしていた。
黒猫は目を細めている。
「いいところだね」
猫は答えない。けれど、喉の奥でごく小さく鳴らす音が、確かに聞こえた。
どれくらい、そうしていただろう。
気がつくと、胸の中のざわつきは、波に洗われた砂のように、すっかりならされていた。仕事のこと、先のこと、考えても答えの出ないこと。それらが消えたわけではない。ただ、この潮の香りの中では、どれもが少しだけ小さく見えた。
立ち上がると、黒猫もすっと腰を上げた。
そして来た道とは別の細い路地へ、しなやかに歩いていく。曲がり角で一度だけ振り返り、金色の瞳で私を見た。
それが、お別れの合図だった。
路地の奥へ消えていく黒い尻尾を、私はしばらく見送っていた。
帰りの道もまた、潮の香りに包まれていた。来たときと同じ道なのに、どこか違って見える。石垣も、貝殻も、揺れる漁船も、さっきより少しやさしい。
駅に着くころには、朝の光は柔らかな昼の色に変わっていた。
電車を待つホームで、私はもう一度、深く息を吸った。
潮の香りは、まだ鼻の奥に残っている。
きっと私は、この匂いを嗅ぐたびに、あの道と、金色の瞳の黒猫を思い出すのだろう。
秋の海辺の町は、何も語らず、ただそこにあって、疲れた誰かをそっと迎え入れてくれる。そんな場所が世界のどこかにあるというだけで、人はもう少しだけ、やさしくなれる気がした。
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