夕方五時を告げるチャイムが、遠くの空に溶けていった。
駅からの帰り道、私はいつもより少しだけ遠回りをした。理由は特にない。ただ、今日はまっすぐ帰りたくなかったのだ。会議が長引いて、言いたいことを半分飲み込んで、気づけば肩のあたりが石のように固くなっていた。
細い路地に入ると、空が急に広くなった。
茜色だった。
西の端からゆっくりと広がった橙が、上へ行くほど薄紅に、さらにその上で淡い紫に溶けている。電線も、屋根瓦も、古い郵便受けも、みんな同じ色の光をまとって、一日の終わりを静かに受け入れているように見えた。
ふと、足が止まった。
古い石の塀の上に、三毛猫がいた。
白と黒とオレンジの模様が、夕焼けの光をうけてほんのりと金色に縁取られている。猫は丸くなって前脚をそろえていたが、私の足音に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。琥珀色の目が、一度だけ私を見た。
それから、猫はおもむろに立ち上がった。
前脚をぐうっと前に伸ばし、背中をしなやかに反らせ、お尻を高く持ち上げる。しっぽの先までぴんと力を込めて、まるで体じゅうの凝りを一本の線にして空へ放つような、それは見事なのびだった。
私は思わず、自分の肩に手をやった。
石のように固かったはずの場所が、ほんの少しだけ、ほどけた気がした。
猫はのびを終えると、何事もなかったように前脚を舐め、茜色の空を見上げた。急ぐ様子はない。誰かに褒められたいわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。ただ、夕暮れの塀の上で、自分のからだをのびのびとさせているだけだ。
それなのに、その姿はなぜだか、とても満ち足りて見えた。
私はそっとカバンを肩から下ろし、塀の前にしゃがんだ。猫は逃げなかった。目を細めて、しっぽの先をゆらりと一度だけ揺らす。「まあ、そこにいてもいいよ」とでも言うように。
どこかの家から、夕飯の支度の音が聞こえてくる。包丁がまな板を打つ軽い音。味噌汁の湯気のにおい。自転車のベルが、遠くで小さく鳴った。
空の茜は、少しずつ深くなっていく。
今日言えなかった言葉のことを、私は考えた。けれど、不思議と胸は重くならなかった。言えなかった日があってもいい。のびをする時間さえあれば、また明日、少しだけ違う自分で歩き出せる。そんな気がした。
やがて猫は、塀の上をとん、とん、と軽やかに歩き出した。三色の背中が、茜色の光の中をゆっくりと遠ざかっていく。角を曲がる直前、猫はちらりとこちらを振り返り、短く「にゃ」と鳴いた。
それが「おつかれさま」に聞こえたのは、きっと私の勝手な思い込みだろう。
けれど、勝手な思い込みでいい。
私は立ち上がって、カバンを持ち直した。肩は、さっきよりずっと軽かった。
茜色の空は、まだそこにあった。明日も、あさっても、きっとこの空は同じように町を包んでくれる。
そう思いながら、私は家に向かって歩き出した。ゆっくりと、塀の上の猫のように、急がずに。
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