2026年10月9日金曜日

癒される茜色の空と丘の上にぽつんと立つ一本の木とマンチカンという猫

癒される茜色の空と丘の上にぽつんと立つ一本の木とマンチカンという猫

 その丘には、一本の木があった。

町のはずれ、舗装された道が途切れて土の道に変わるあたりから、ゆるやかな坂がはじまる。坂を登りきると、風に揺れる草の海の真ん中に、その木はひとりで立っていた。枝ぶりは少し不格好で、幹はいくぶん傾いている。それでも、誰もいない丘の上で空をまっすぐ見上げている姿には、不思議な落ち着きがあった。

秋の夕方、わたしはときどき、その木に会いに行く。

何があったというわけでもない。ただ、一日の終わりに胸のあたりへ薄い膜が張ったようになる日があって、そんな日は決まって足がこちらへ向く。靴の底で土を踏むたびに、乾いた草の匂いが立ちのぼる。坂を半分登ったところで、空の色が変わりはじめていることに気づいた。

西の空が、茜色に染まっていた。

青から橙へ、橙から赤みを帯びた金色へ。絵の具を水に落としたみたいに、色がゆっくりと滲んでいく。雲の縁だけが燃えるように光り、その下の稜線は、墨を引いたような濃い影になっていた。

坂を登りきって、わたしは足を止めた。

木の根元に、先客がいたのだ。

小さな猫だった。丸みのある茶色の体に、白い靴下を履いたような短い足。マンチカンだ、と思った。木の根のあいだにぺたんと座り、夕焼けのほうを向いたまま、微動だにしない。首輪はなく、けれど毛並みはふんわりと整っていて、どこかの家の子なのか、それともこの丘に住んでいるのか、わからなかった。

そっと近づいていくと、猫はちらりとこちらを振り返った。琥珀色の目が、茜色の光を受けて、二つの小さな夕日みたいに輝く。逃げる気配はない。ただ「ああ、来たの」とでも言うように一度だけまばたきをして、また空へと顔を戻した。

わたしは猫から少し離れた場所に、そっと腰をおろした。

草は夕方の空気を吸って、ほんのり冷たかった。風が丘をなでるように渡っていく。木の葉がさわさわと鳴り、その音に合わせて、猫の耳が小さく動いた。

しばらくのあいだ、わたしたちは何も言わずに同じ空を見ていた。いや、言葉を持たないのは猫のほうだけで、わたしにも、言うべきことは何ひとつ浮かんでこなかった。それが不思議と心地よかった。

考えてみれば、最近のわたしは、ずっと何かを埋めようとしていた。予定を、時間を、会話の沈黙を。ひとりでいる時間さえ、スマートフォンの光で満たしていた。けれど、この丘の上には、埋めるべきものがなかった。空があって、木があって、風があって、猫がいる。それだけで、世界はもう十分に満ちているように思えた。

やがて猫が立ち上がり、ゆっくりとのびをした。前足をぐっと伸ばし、背中を丸め、小さな口を大きくあける。そうして短い足でとことこと歩いてきて、わたしの膝の横に、ちょこんと座り直した。

触れてはいない。けれど、ほんの指一本ぶんの距離に、あたたかな体温があった。

「ここ、いい場所だね」

声に出してみると、猫は返事の代わりに、のどの奥でごろごろと小さく鳴いた。その音は、遠くの風の音とよく似ていた。

空はさらに深い色へと移ろっていく。茜色の端が、紫を帯びはじめる。丘の上の木は、いまや空を背にした黒いシルエットになって、枝の一本一本が、細い筆で描かれたように浮かびあがっていた。たった一本で立っているのに、少しも寂しそうには見えない。きっとこの木は、ひとりであることと、ひとりぼっちであることが、違うのだと知っているのだろう。

一番星が、ひとつだけ顔を出した。

猫がその星を見上げる。わたしも見上げる。膝の横の小さな温もりが、わたしの胸の薄い膜を、少しずつ溶かしていくようだった。

どれくらいそうしていただろう。気がつけば、茜色はほとんど消え、空は静かな藍へと変わっていた。

「そろそろ帰ろうか」

そう言って立ち上がると、猫も同じように立ち上がり、一度だけ木の幹に頭をこすりつけた。それから、短い足で草のあいだへ入っていき、やがて夕闇の中へ溶けるように見えなくなった。

わたしはもう一度だけ、丘の上の木を振り返った。

茜色の名残りの中で、木は変わらず、そこに立っていた。明日もきっと、同じように空を見上げているのだろう。

坂を下りながら、胸のあたりが、ふっと軽くなっていることに気づいた。

夕焼けが特別なことを教えてくれたわけではない。猫が何かを慰めてくれたわけでもない。ただ、何も足さなくていい時間が、そこにあっただけだ。

けれどそれは、わたしにとって、何よりの贈りものだった。

遠くの町に、ぽつぽつと灯りがともりはじめる。わたしはその灯りに向かって、ゆっくりと歩いていった。

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