2026年10月20日火曜日

癒される秋の蕎麦畑と白い花の丘と黒猫

癒される秋の蕎麦畑と白い花の丘と黒猫

 バスを降りたのは、昼を少し過ぎたころだった。

運転手さんに会釈をして、小さな停留所に立つ。エンジンの音が遠ざかっていくと、あたりには風の音だけが残った。耳の奥にたまっていた街のざわめきが、ゆっくりほどけていくのがわかる。

目の前に、白い海が広がっていた。

蕎麦の花だ。畑いちめんに咲いた小さな白い花が、秋の風に揺れて、さざ波のように丘のふもとまで続いている。茎の先はほんのり赤く、白と赤のやわらかな濃淡が、午後の光に透けていた。

「こんなに静かな白があるんだな」

思わず、ひとりごとがこぼれた。

畑のあいだの細い道を歩く。土は乾いていて、靴の底からやさしい音がする。蕎麦の花からは、ほのかに甘く素朴な香りがした。花というより、遠い記憶の匂いに近い。子どものころの夏休み、祖母の家の縁側で嗅いだような、懐かしい匂いだった。

道の先に、小さな丘が見えた。

頂のあたりが、まるで雲をひとつ置いたように白い。近づくと、背の低い野の花が、丘の斜面いっぱいに咲いていた。名前は知らない。けれど、白い花びらが秋の陽をうけて、ひとつひとつ小さく光っている。

ゆるやかな坂をのぼる。息が少しあがったところで、ふと足を止めた。

丘の上の、いちばん日当たりのいい場所に、黒い影があった。

猫だ。

艶のある真っ黒な猫が、白い花のあいだに、きちんと前足をそろえて座っている。毛並みは秋の光を吸って、深い墨色にやわらかく光っていた。金色の目がこちらをとらえる。逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ「来たか」とでも言うように、ゆっくりまばたきをした。

「こんにちは」

小声で言うと、黒猫は短く尻尾を振った。

白い花の中の黒猫は、まるで一枚の絵のようだった。白があるから黒が深くなり、黒があるから白がやさしくなる。どちらが欠けても、この景色は完成しない気がした。

私は少し離れた草の上に腰をおろした。

背中にあたる日差しは、あたたかい。けれど頬をなでる風は、もうすっかり秋のものだ。その温度差が心地よくて、深く息を吸い込んだ。

眼下には、蕎麦畑が見渡せた。白い花の波が、風にあわせて右へ、左へ、ゆっくりと揺れている。畑のむこうには、刈り入れの終わった田んぼと、茅葺き屋根の古い家。細くのぼる煙は、誰かが夕餉のしたくを始めたのだろうか。

時間が、ここだけゆっくり流れている。

スマートフォンは、鞄の底に入れたままだ。通知も、締め切りも、返しそびれたメッセージも、この丘までは追いかけてこない。

ふと気づくと、黒猫がすぐそばまで来ていた。

音もなく、白い花を踏み分けて、私の隣にぺたりと座る。距離は、腕ひとつぶん。近すぎず、遠すぎず、ちょうどいい。猫はそういう距離をよく知っている。

しばらく、ふたりで同じ景色を眺めた。

猫は、ときどき耳をぴくりと動かす。風が運んでくる、虫の声か、枯れ葉の音を拾っているのだろう。私にはまだ聞こえない小さな音を、この子はぜんぶ聞いている。

「ここは、いいところだね」

返事はない。ただ、ゆっくりとまぶたが閉じて、また開いた。

それだけで、十分だった。

日が少しずつ傾いてきた。

白い花の丘が、うっすらと金色を帯びはじめる。蕎麦畑の白も、夕方の光をうけて、淡い桃色に染まっていく。昼の白とは違う、どこか恥ずかしそうな色だった。

黒猫は、いつのまにか丸くなっていた。

前足をたたみ、尻尾を体に巻きつけて、白い花に埋もれるように目を閉じている。小さな背中が、呼吸にあわせて上下する。その規則正しいリズムを見ていると、こちらの呼吸まで自然とゆっくりになった。

急がなくていい。

誰に言われたわけでもないのに、そんな言葉が、胸の奥にすとんと落ちてきた。

遠くで、帰りのバスのエンジン音が聞こえた。

名残惜しい気持ちで立ちあがる。膝についた草を払うと、黒猫が片目だけ開けて、こちらを見た。引きとめるでもなく、見送るでもない。ただ「気をつけて」と言うような、静かな金色の目だった。

「ありがとう。元気でね」

そっと手をふって、丘をくだる。

ふりかえると、夕焼けの光のなかで、白い花の丘と、小さな黒い影が、ひとつの景色になっていた。蕎麦畑は、いつまでも静かに揺れている。

バスの座席に座ると、窓の外を白い波が流れていった。

鞄の底のスマートフォンは、まだ取りださないでおこう。もう少しだけ、あの丘の風の匂いを、胸のなかに残しておきたかった。

秋の蕎麦畑と、白い花の丘と、黒猫。

ただそれだけの午後が、どんな贅沢よりも、心をやわらかくしてくれた。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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