バスを降りたのは、昼を少し過ぎたころだった。
運転手さんに会釈をして、小さな停留所に立つ。エンジンの音が遠ざかっていくと、あたりには風の音だけが残った。耳の奥にたまっていた街のざわめきが、ゆっくりほどけていくのがわかる。
目の前に、白い海が広がっていた。
蕎麦の花だ。畑いちめんに咲いた小さな白い花が、秋の風に揺れて、さざ波のように丘のふもとまで続いている。茎の先はほんのり赤く、白と赤のやわらかな濃淡が、午後の光に透けていた。
「こんなに静かな白があるんだな」
思わず、ひとりごとがこぼれた。
畑のあいだの細い道を歩く。土は乾いていて、靴の底からやさしい音がする。蕎麦の花からは、ほのかに甘く素朴な香りがした。花というより、遠い記憶の匂いに近い。子どものころの夏休み、祖母の家の縁側で嗅いだような、懐かしい匂いだった。
道の先に、小さな丘が見えた。
頂のあたりが、まるで雲をひとつ置いたように白い。近づくと、背の低い野の花が、丘の斜面いっぱいに咲いていた。名前は知らない。けれど、白い花びらが秋の陽をうけて、ひとつひとつ小さく光っている。
ゆるやかな坂をのぼる。息が少しあがったところで、ふと足を止めた。
丘の上の、いちばん日当たりのいい場所に、黒い影があった。
猫だ。
艶のある真っ黒な猫が、白い花のあいだに、きちんと前足をそろえて座っている。毛並みは秋の光を吸って、深い墨色にやわらかく光っていた。金色の目がこちらをとらえる。逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ「来たか」とでも言うように、ゆっくりまばたきをした。
「こんにちは」
小声で言うと、黒猫は短く尻尾を振った。
白い花の中の黒猫は、まるで一枚の絵のようだった。白があるから黒が深くなり、黒があるから白がやさしくなる。どちらが欠けても、この景色は完成しない気がした。
私は少し離れた草の上に腰をおろした。
背中にあたる日差しは、あたたかい。けれど頬をなでる風は、もうすっかり秋のものだ。その温度差が心地よくて、深く息を吸い込んだ。
眼下には、蕎麦畑が見渡せた。白い花の波が、風にあわせて右へ、左へ、ゆっくりと揺れている。畑のむこうには、刈り入れの終わった田んぼと、茅葺き屋根の古い家。細くのぼる煙は、誰かが夕餉のしたくを始めたのだろうか。
時間が、ここだけゆっくり流れている。
スマートフォンは、鞄の底に入れたままだ。通知も、締め切りも、返しそびれたメッセージも、この丘までは追いかけてこない。
ふと気づくと、黒猫がすぐそばまで来ていた。
音もなく、白い花を踏み分けて、私の隣にぺたりと座る。距離は、腕ひとつぶん。近すぎず、遠すぎず、ちょうどいい。猫はそういう距離をよく知っている。
しばらく、ふたりで同じ景色を眺めた。
猫は、ときどき耳をぴくりと動かす。風が運んでくる、虫の声か、枯れ葉の音を拾っているのだろう。私にはまだ聞こえない小さな音を、この子はぜんぶ聞いている。
「ここは、いいところだね」
返事はない。ただ、ゆっくりとまぶたが閉じて、また開いた。
それだけで、十分だった。
日が少しずつ傾いてきた。
白い花の丘が、うっすらと金色を帯びはじめる。蕎麦畑の白も、夕方の光をうけて、淡い桃色に染まっていく。昼の白とは違う、どこか恥ずかしそうな色だった。
黒猫は、いつのまにか丸くなっていた。
前足をたたみ、尻尾を体に巻きつけて、白い花に埋もれるように目を閉じている。小さな背中が、呼吸にあわせて上下する。その規則正しいリズムを見ていると、こちらの呼吸まで自然とゆっくりになった。
急がなくていい。
誰に言われたわけでもないのに、そんな言葉が、胸の奥にすとんと落ちてきた。
遠くで、帰りのバスのエンジン音が聞こえた。
名残惜しい気持ちで立ちあがる。膝についた草を払うと、黒猫が片目だけ開けて、こちらを見た。引きとめるでもなく、見送るでもない。ただ「気をつけて」と言うような、静かな金色の目だった。
「ありがとう。元気でね」
そっと手をふって、丘をくだる。
ふりかえると、夕焼けの光のなかで、白い花の丘と、小さな黒い影が、ひとつの景色になっていた。蕎麦畑は、いつまでも静かに揺れている。
バスの座席に座ると、窓の外を白い波が流れていった。
鞄の底のスマートフォンは、まだ取りださないでおこう。もう少しだけ、あの丘の風の匂いを、胸のなかに残しておきたかった。
秋の蕎麦畑と、白い花の丘と、黒猫。
ただそれだけの午後が、どんな贅沢よりも、心をやわらかくしてくれた。
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