一、岬へ続く道
十月の終わりに近い朝だった。
バスを降りると、潮の匂いに、乾いた草の匂いが混じっていた。夏のあいだ濃い緑だったススキは、いまは銀色の穂をつけ、海からの風に合わせて、ゆっくりと同じ方向へ頭を下げている。
岬の先まで、舗装されていない細い道が一本だけ続いていた。
私はリュックの肩紐を握り直して歩き出した。足もとで小石が鳴り、それが静けさをいっそう際立たせた。道の先には、白い灯台が、空の青をそのまま背負うようにして立っていた。
二、灯台の足もと
灯台は思っていたよりも小さかった。
塗装は少し剥げ、鉄の手すりには潮風が刻んだ錆が浮いている。けれどそれは、疲れた姿というより、長いあいだ同じ場所で同じ仕事を黙々とやり遂げてきた人の、落ち着いた佇まいに見えた。
その足もとに、先客がいた。
大きな猫だった。
灰色と茶色がまじった長い毛は、風に撫でられるたびに波のように揺れる。耳の先には、筆で描いたような細い房毛。首のまわりには、冬支度を済ませたばかりのような、ふわりとした襟巻き。
メインクーンだった。
猫は灯台の影の中で丸くなることもなく、前脚をきちんとそろえ、背筋を伸ばして座っていた。そして、ただ、海を見ていた。
三、澄んだ水平線
私は少し離れた石の上に腰をおろした。
猫はちらりとこちらを見た。金色がかった緑の目が、一瞬だけ私を確かめて、それから何事もなかったように海へ戻った。
歓迎もされなかったし、拒まれもしなかった。それがなんだか、とてもありがたかった。
視線を海へ向けると、そこには、見たこともないほど澄んだ水平線があった。
空と海の境目が、定規で引いたようにまっすぐで、そのすぐ上だけが、うすい白金色に光っている。夏の水平線は霞んでいる。春の水平線はやわらかく溶けている。けれど秋の水平線は、息を止めたように静かで、どこまでも遠くを見せてくれる。
胸の奥にたまっていた、名前のつかない重たいものが、その線の向こうへ少しずつ運ばれていく気がした。
四、ならんで座る
どれくらい時間が経っただろう。
気がつくと、猫が私のすぐ隣にいた。いつ移動したのか、まるで分からなかった。大きな体のわりに、足音ひとつ立てない。
猫は私に触れるでもなく、甘えるでもなく、石の上に行儀よく座り直して、また水平線を見つめた。
私も、同じ方向を見た。
言葉はいらなかった。
二人で、というのは変かもしれない。けれど、確かに、ひとりと一匹で、同じ景色を眺めていた。波の音が、遠くで規則正しく繰り返される。ときどき海鳥が高いところを横切って、その影がゆっくりと海面をすべっていく。
ふと、猫が喉をごろごろと鳴らし始めた。
メインクーンは、ほかの猫より少し低い声で鳴らすのだと、どこかで聞いたことがある。その低くてやわらかい響きは、波の音と重なって、ひとつの穏やかな音楽のようになった。
私は思わず、目を閉じた。
五、灯りがともるまで
日が傾きはじめると、空は少しずつ蜂蜜色に変わっていった。
水平線のあたりが、金色から、うすい桃色へ。桃色から、静かな藍色へ。
そのとき、頭の上で、かすかな音がした。
見上げると、灯台に、ぽっと灯りがともっていた。
大きな光ではなかった。けれど、夕暮れの空の中で、その灯りは、とてもまっすぐで、とてもやさしかった。誰かを急かすためではなく、迷った人にそっと「ここにいるよ」と伝えるための光に見えた。
猫が立ち上がった。
長い尾をゆったりと揺らして、一度だけこちらを振り返る。それから、灯台の裏の草むらへ、堂々とした足取りで消えていった。
六、帰り道
私はしばらく、そこに座っていた。
帰りのバスの時刻が近づいていたけれど、立ち上がるのが少しだけ惜しかった。
それでも、ようやく腰を上げて、来た道を戻りはじめる。背中のほうで、灯台の光が、ゆっくりと回っているのが分かった。
振り返らなくても、不思議と寂しくなかった。
澄んだ水平線も、灯台の灯りも、あの大きな猫の低い喉の音も、全部ちゃんと、私の中に残っていたから。
秋の岬は、何も語らない。
けれど、ただそこにいてくれるだけで、人の心をこんなにも静かに整えてくれる。
もし今、なんとなく疲れている人がいたら、一度、海の見える場所まで足を伸ばしてみてほしい。
そこにはきっと、灯りと、水平線と、黙って隣に座ってくれる誰かが待っている。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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