2026年10月16日金曜日

癒される夕暮れの屋根の上と群青の空をながめる黒猫

癒される夕暮れの屋根の上と群青の空をながめる黒猫

  夕方の五時を少し過ぎたころ、町のいちばん高い屋根の上に、一匹の黒猫が座っていた。

 名前はない。いや、呼ぶ人によって名前が違うだけだ。商店街の八百屋のおじさんは「クロ」と呼び、角の古い喫茶店のマスターは「ミッドナイト」と呼び、向かいのアパートに住む小学生は「ぬばたま」と呼んでいる。猫のほうは、どの名前で呼ばれても、同じようにゆっくりと瞬きを返すだけだった。

 屋根瓦はまだ、昼間のぬくもりを少しだけ残している。黒猫はその温かさを、おなかの下でたしかめるように、前足をそろえて座り直した。

 西の空は、ちょうど茜色から藤色へ移ろうところだった。雲のふちが金色に縁どられ、その端から少しずつ、深い青がにじんでくる。絵の具をひとしずく水に落としたときのように、やわらかく、ゆっくりと。

 下の通りから、夕飯のにおいが立ちのぼってきた。焼き魚、煮物、どこかの家のカレー。窓という窓に、ひとつ、またひとつと明かりがともっていく。誰かが「ただいま」と言い、誰かが「おかえり」と答える声が、遠くかすかに風に混ざって届いた。

 黒猫は、その声のひとつひとつを、耳の先で受けとめていた。

 この屋根の上から見える景色を、猫は毎日ながめている。けれど、同じ日は一日もない。今日の空は、昨日より少し高い。風は、少しだけ冷たい。電線にとまっていたスズメたちが、いつもより早く寝床へ帰っていった。季節が静かに歩みを進めているのが、猫にはわかる。

 やがて、空の色がすっかり変わった。

 茜は遠い山の端に追いやられ、かわりに頭上いっぱいに、群青が広がっていく。昼でも夜でもない、ほんの短い時間だけの、とっておきの青。町の輪郭がやわらかくほどけて、屋根も、電線も、遠くの鉄塔も、同じ深い青のなかに溶けていく。

 黒猫の毛並みも、その青に溶けていた。もともと夜の色をしている身体は、群青の空にいちばんよくなじむ。屋根の上に、猫のかたちをした小さな夜が、ひとつ座っているようだった。

 最初の星が、空の低いところでまたたいた。

 猫は顔を上げ、琥珀色の目でそれをじっと見つめた。星は何も言わない。猫も何も言わない。ただ、遠いものと近いものが、静かに視線を交わしている。それだけで、この世界には十分なのだと思えた。

 しっぽの先が、ひとつ、ふわりと揺れる。

 下の通りでは、自転車のベルが鳴り、誰かの笑い声がはじけた。いつもの夕暮れ。いつもの町。けれど、屋根の上から見るそれは、どこかやさしい物語の一場面のようだった。

 夜風が少し強くなって、黒猫はそっと目を細めた。ひげが風に揺れ、耳がぴくりと動く。帰る場所は、ちゃんとある。今夜も、八百屋の裏の段ボールのなかに、古い毛布が敷いてある。でも、もう少しだけ。もう少しだけ、この青を見ていたかった。

 空はますます深くなり、星がひとつ、またひとつと増えていく。

 屋根の上の小さな影は、その様子を、ただ静かにながめつづけていた。

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あとがき

 いそがしい毎日のなかで、空を見上げる時間は、ついあと回しになってしまいます。

 けれど、夕暮れから群青へ移るほんの十数分は、ただ見ているだけで、心の中のざわざわがゆっくりと静まっていく、不思議な時間です。もし今日、少し疲れているなら、窓の外をのぞいてみてください。屋根の上のどこかに、同じ空をながめている黒猫がいるかもしれません。

 それでは、あたたかい飲みものでも片手に、おだやかな夜をお過ごしください。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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