山あいの小さな沢には、秋になると決まって紅紫色の花が揺れはじめる。
ツリフネソウ。細い茎の先から、小さな舟を吊り下げたような花がいくつも垂れ下がり、水の気配をまとった風が吹くたびに、ゆらり、ゆらりと静かに傾く。
その沢のほとりに、毎朝同じ時間に現れる影があった。
メインクーンの「ルカ」だ。
大きな体を低くして、長い毛並みを朝の光にふくらませながら、ルカは湿った苔の上をゆっくり歩く。耳の先に生えた房毛が、ツリフネソウの花と同じリズムでかすかに揺れていた。
ルカがここを見つけたのは、半月ほど前のことだ。
その頃のルカは、少しだけ落ち着きがなかった。夏の名残の暑さが長引いて、眠りも浅く、家の中を行ったり来たりしていた。窓の外を見ては、ため息のような息をひとつ吐く。そんな日が続いたある朝、玄関の戸がほんの少しだけ開いていて、ルカはするりと外へ出た。
足の向くままに歩いた先で、ルカは音に出会った。
さらさら、ちゃぷちゃぷ、ころころ。
石の間をすべり落ちる水の音は、ひとつとして同じ響きがなかった。高い音、低い音、ふっと途切れる音、また始まる音。ルカは座り込み、大きな前足をきちんとそろえて、目を細めた。
ひげがゆっくり前を向く。耳が、水の流れる方向へそっと傾く。
その頭の上で、ツリフネソウの花が揺れた。
ひとつ、ふたつ。風に押された花が、ルカの背中にそっと触れる。くすぐったそうに肩をすくめたルカは、それでも逃げなかった。そのまま、せせらぎに耳をあずけていた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
日がのぼって、木々の間から斜めの光が差し込んだ。水面がきらきらと細かく砕け、その光の粒が、ルカの琥珀色の瞳にも映りこんだ。吊り下がった花の影が、苔の上に小さな舟の形をいくつも描いている。
ルカは、ふう、と長く息を吐いた。
胸の奥にたまっていたものが、水に溶けて流れていくようだった。暑さも、眠れなかった夜も、なんとなくざわついていた気持ちも、この音の中ではどれも小さなことに思えた。
ツリフネソウの実は、熟すと触れただけではじけて種を飛ばす。ルカの尻尾の先が、うっかりその実に触れたのは、そんな頃だった。
ぱちん。
小さな音と一緒に、種がぱらぱらと苔の上に散った。ルカはびくりと振り向いて、目をまんまるにして、しばらく固まっていた。それから、何事もなかったような顔で前を向き直し、また静かにせせらぎを聞きはじめた。
その背中が、なんだかとてもかわいかった。
やがて、昼が近づく。
山の空気は少しずつあたたかくなり、沢の音はいっそうやわらかく聞こえはじめた。ルカはゆっくり立ち上がり、一度だけ大きく伸びをして、ツリフネソウの花を見上げた。
そして、「にゃ」と短く、小さく鳴いた。
ありがとう、とも、またね、とも聞こえる声だった。
帰り道、ルカの毛並みには、ツリフネソウの花びらが一枚だけくっついていた。紅紫色の小さな花びらは、陽の光の中でそっと光って、ルカの歩みに合わせて、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
秋の沢には、今日も水の音が流れている。
吊り下がる花は風に揺れて、ひとときの静けさを、誰かの心にそっと届けている。
もし最近、気持ちがざわついているなら、ほんの少しだけ立ち止まって、耳をすませてみてほしい。
せせらぎの音と、揺れる花と、そこにたたずむ一匹の猫が、きっと、あなたの時間もやさしくほどいてくれる。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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