2026年10月17日土曜日

癒される高原を吹き抜ける風の音とメインクーンという猫

癒される高原を吹き抜ける風の音とメインクーンという猫

 

一、朝いちばんの風

バスを降りると、まず風の音が耳に届いた。

ざあ、という大きな音ではない。背の低い草の先を、誰かが指でなでていくような、さらさらとした音だった。

標高千二百メートルの高原。十月の終わりの空気は、吸い込むと胸の奥まで冷たく澄んで、肺の中がぜんぶ入れ替わっていくような気がした。

私はリュックの肩紐を握り直して、ゆっくり歩き出した。

行き先は決めていなかった。ただ、電車の音とスマートフォンの通知音から、少しだけ離れたかった。それだけの理由でここに来た。

二、丘の上の影

歩き始めて二十分ほど経った頃だった。

なだらかな丘の上に、大きな何かがうずくまっているのが見えた。岩かと思ったが、風が吹くたびに、その表面がふわりと波打つ。

近づいていくと、それは一匹の猫だった。

大きい。思っていたより、ずっと大きい。

茶色と黒のまだら模様の長い毛が、風にあおられて四方に揺れている。耳の先には、筆のような飾り毛がぴんと立っていた。首のまわりには、ライオンのたてがみを思わせる豊かな毛が広がっている。

メインクーン。

写真でしか見たことのなかった、あの大きな猫だった。

猫は私に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。琥珀色の目が、朝の光を受けて、静かに光った。

逃げるでも、近づくでもない。ただ、「ああ、来たのか」とでも言うように、一度だけゆっくりとまばたきをした。

三、並んで座る

私は、猫から少し離れたところに腰を下ろした。

草の上は、朝露でほんの少し湿っていた。ズボン越しに冷たさが伝わってきたけれど、不思議と気にならなかった。

風が吹く。

草がいっせいに同じ方向へ傾いて、波のように丘を渡っていく。その音は、遠くの海の音にも、誰かの寝息にも聞こえた。

猫は、風上に鼻先を向けたまま、目を細めていた。

ひげが風に震えている。毛並みが逆立って、また静かに寝る。それをくり返している。

「いい風だね」

声に出してみたら、自分の声が思いのほか小さくて、少し笑ってしまった。

猫は返事をしなかった。けれど、長いしっぽが、ぱたり、と一度だけ草を打った。

それが返事だったのかどうかは、わからない。わからなくていいと思った。

四、風の中に混じるもの

しばらく、何も考えずに座っていた。

風の音のなかには、いろいろなものが混じっていることに、そのうち気がついた。

草の葉がこすれ合う音。遠くで鳴く鳥の声。どこかの牧場の、かすかな鈴の音。そして、すぐ隣から聞こえてくる、低くて小さな、ごろごろという音。

猫が喉を鳴らしていた。

風の音と、猫の喉の音。ふたつが重なって、ひとつの音楽みたいになっていた。

最後にこんなふうに、何もしない時間を過ごしたのは、いつだっただろう。

予定を詰めて、返信を急いで、空いた時間にさえ何かを入れようとしていた。休むことにまで、効率を求めていたような気がする。

けれど、この丘の上では、誰も私を急かさない。

急かすのは風だけで、その風でさえ、ただ通り過ぎていくだけだった。

五、猫のとなり

陽が少し高くなった頃、猫がのそりと立ち上がった。

近くで見ると、本当に大きな体だった。足も太く、肩幅もある。それなのに、歩く姿はおどろくほど静かで、草を踏む音さえほとんどしない。

猫は、私の前を通り過ぎて、少し先で立ち止まり、ふり返った。

ついて来い、と言っているのだろうか。

私は立ち上がって、猫のあとを歩いた。

丘をひとつ越えると、目の前に広い景色が開けた。

なだらかな斜面が幾重にも重なって、遠くの山並みへと続いている。ところどころに、白樺の木が細い影を落としている。空は高く、雲がゆっくりと流れていた。

風が、まっすぐ私の顔に当たった。

目を閉じると、まぶたの裏まで、風の音でいっぱいになった。

六、帰り道

昼前、私はバス停へ戻ることにした。

猫は、丘の上から私を見送ってくれた。ついては来なかった。ただ、たてがみを風になびかせて、じっとこちらを見ていた。

いちど、ふり返った。

猫は、まだそこにいた。大きな体が、空と草原のあいだに、ひとつの静かな点のように立っていた。

私は小さく手をあげた。

猫は、ゆっくりと、まばたきをした。

帰りのバスの窓から、高原が遠ざかっていく。

けれど、耳の奥には、まだ風の音が残っていた。草を渡る、さらさらとした音。猫の、ごろごろという音。

それは、日常に戻ってからも、ふとした瞬間によみがえる。

駅のホームで、会社の廊下で、眠る前の暗い部屋で。

目を閉じると、あの丘の風が、そっと吹いてくる。

そんな音を、ひとつ持ち帰ることができた。

それだけで、私はまた、明日からの毎日を歩いていけそうな気がした。


忙しい毎日の中で、ふと立ち止まりたくなったら、風の通る場所へ出かけてみてください。もしそこに、大きな猫が座っていたら、となりに少しだけ腰を下ろしてみてください。何も言わなくても、風がちゃんと、あなたの話を聞いてくれます。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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