はじめに
秋の海は、夏とはまるで違う顔をしている。
はしゃぐような光は影をひそめて、波の音もどこか低く、やわらかくなる。そんな季節の海辺の道を、ゆっくり歩いてみたくなった日のことを、少し物語のように書いてみようと思う。
一、潮の匂いがする坂道
駅から続く細い坂を下りきると、ふいに視界がひらけた。
空と海の境目が、うすい水色のなかに溶けている。風には潮の匂いがほんのり混じっていて、肌に触れる空気は、夏の名残をすっかり手放した涼しさだった。
海沿いの道は、舗装の端がところどころ砂に埋もれている。その道に沿って、白っぽい小さな花が、ずっと向こうまで続いていた。
ノギクだった。
背の低い花たちは、風が吹くたびに一斉に首をかしげる。誰かに「そうだね」とうなずいているように、こくり、こくりと揺れていた。
二、揺れるものを眺める時間
私は道の途中で足を止めて、しばらくその花を眺めていた。
派手な花ではない。庭に植えられて褒められることも、花束になることも、きっと少ない。けれど、海風に吹かれながら、折れもせず、ただしなやかに揺れている姿には、不思議な落ち着きがあった。
花びらは淡い紫がかった白で、中心の黄色だけが、小さな灯りのようにともっている。
風が強くなると、花はぐっと身を伏せる。風がやむと、何事もなかったように、また顔を上げる。
その繰り返しを見ているうちに、胸の奥でこわばっていたものが、少しずつほどけていくのがわかった。
三、ガードレールの上の小さな影
ふと、視線の先で何かが動いた。
道の脇の低い石垣の上に、丸い背中が見える。近づいてみると、一匹の猫が、日向にちょこんと座っていた。
マンチカンだった。
短い脚をきちんとそろえて、まるでそこが自分の指定席であるかのように、堂々と海のほうを向いている。毛はやわらかそうなクリーム色で、背中にうっすらと茶色の模様がのぞいていた。
私が一歩近づくと、猫は首だけをこちらに向けた。
丸い目が、じっと私を見る。逃げるでもなく、慌てるでもなく、ただ静かに「どうぞ」と言っているようだった。
四、並んで海を見る
私は少し離れた場所に腰を下ろした。
猫はしばらく私を見ていたけれど、やがて興味を失ったように、また海へ顔を戻した。
そのあいだにも、ノギクは風に揺れつづけている。波が岩に当たる音が、遠くから一定のリズムで届く。猫の耳が、ときどきぴくりと動いて、風の音を拾っているのがわかった。
何も話さなくていい時間だった。
誰かに何かを説明する必要も、うまく笑う必要もない。ただ、海と花と猫と、自分とが、同じ空気のなかにいる。それだけのことが、こんなにも満ち足りているなんて。
五、短い脚で、花のあいだへ
しばらくして、猫がすっと石垣から降りた。
短い脚でちょこちょこと歩きだす。その先には、ノギクの群れがあった。
猫は花の前で立ち止まり、鼻先をそっと近づけた。花がふわりと揺れる。猫の耳も、つられて揺れる。
白い花と、クリーム色の毛並みが、秋の光のなかでやさしく重なった。
私は思わず、息をひそめた。
この景色を写真に撮ろうかとも思ったけれど、手を動かすのをやめた。ただ目に焼きつけておくほうが、きっと長く残る気がしたから。
六、帰り道のこと
日が少しずつ傾いて、海の色が深くなってきた。
私が立ち上がると、猫は振り返って、一度だけ短く鳴いた。見送ってくれているのか、ただの気まぐれなのか。どちらでもよかった。
来た道を戻りながら、何度か振り返った。
そのたびに、ノギクは変わらず風に揺れていて、小さな猫の影は、少しずつ遠くなっていった。
坂の上で最後にもう一度だけ海を見た。空はうすい金色に染まりはじめている。
おわりに
忙しい日々のなかで、「癒される」という言葉は、どこか遠いものに感じることがある。
でも本当は、特別な場所に行かなくても、特別なことをしなくても、癒しはすぐそばにあるのかもしれない。
風に揺れる小さな花を、少し長めに眺めてみること。
海の音に耳をすませてみること。
そして、たまたま出会った猫の背中に、ほんの少し心をあずけてみること。
それだけで、秋の一日は、やさしい物語になる。
もしあなたが、どこかの海辺の道でノギクの揺れる景色に出会ったら、ぜひ足を止めてみてください。そこに小さな猫が座っていたら、きっとそれは、その日いちばんの贈りものです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿