日が沈んでしまうと、海は急に口数が少なくなる。
昼のあいだ、あれだけきらきらと騒いでいた水面が、夕焼けの最後のひとかけらを飲み込んだあと、ふっと声をひそめる。空と海の境目はやわらかくほどけて、どこまでが空で、どこからが海なのか、もう誰にも分からなくなる。残っているのは、深い群青色だけだ。
その日、私は仕事帰りに、なんとなく海沿いの道で足を止めた。
家に帰れば、明日の準備もある。返しそびれたメッセージもある。けれど、堤防の向こうに広がる群青を見たら、急ぎの用事がすべて、波の向こうへ遠のいていくような気がした。
階段を二段おりて、防波堤のすみに腰をかける。コンクリートは昼の熱をまだほんの少しだけ抱えていて、手のひらを置くと、ぬるいお茶のようにやさしかった。
ざざあ、と波が寄せる。しばらくして、すう、と引いていく。
昼の波音は「ざばん」と元気がいい。けれど、日が沈んだあとの波音は違う。小さな子どもを寝かしつけるときの、あの手のひらのリズムに似ている。とん、とん、とん。急がなくていいよ、今日はもう終わっていいよ、と言われているみたいだった。
どれくらい、そうしていただろう。
足もとで、かすかな音がした。かり、と爪がコンクリートをかく音。
振り向くと、黒い影がひとつ、防波堤の上に座っていた。
黒猫だった。
夜の色をそのまま小さく切り取ったような猫で、群青の空を背にすると、輪郭だけがすこし深い黒になる。まん丸の目だけが、遠くの港の灯りを映して、ぽつんと金色に光っていた。
「こんばんは」
声をかけると、黒猫は返事をする代わりに、ゆっくりとまばたきをした。
猫のゆっくりしたまばたきは、「あなたを信用しています」という挨拶なのだと、昔どこかで聞いたことがある。本当かどうかは分からない。けれど、そう言われたような気がして、私もゆっくりまばたきを返した。
黒猫は、ほんの少し距離をあけて、私の隣に座った。
触れようとはしなかった。触れてほしそうでもなかった。ただ、同じ方向を向いて、同じ海を見ている。それだけのことが、不思議なくらいありがたかった。
ざざあ、と波が寄せる。すう、と引いていく。
黒猫の耳が、波の音に合わせて、ぴくりと動いた。しっぽの先が、とん、とん、と小さくコンクリートを打つ。波のリズムと、少しだけずれていて、そのずれがなんだかおかしくて、私は声を出さずに笑った。
この猫にも、きっと一日があったのだろう。
どこかの路地を歩いて、誰かの足音に耳をすませて、お腹を空かせたり、日だまりを見つけたりして。そうして今、夜のはじまりの海を、静かに見ている。
私たちはお互いの名前も知らない。それでも、同じ群青の中に、並んで座っている。
空の端に、ひとつ、星が出た。
ほんのりと白く、頼りなく、けれど確かに。それを合図にしたみたいに、海はますます深い色になって、波音はさらに小さくなった。
「また、明日ね」
立ち上がるとき、自然とそんな言葉が出た。
黒猫は振り向きもせず、ただ海を見たままだった。けれど、しっぽがひとつ、ゆらりと揺れた。
それで十分だった。
帰り道、背中のほうから、まだ波の音が聞こえていた。ざあ、すう、ざあ、すう。まるで、海がこちらの呼吸に合わせてくれているみたいに。
さっきまで肩にのっていた重たいものが、いつのまにか、どこかで下りていた。何かを解決したわけではない。ただ、群青の海と、静かな波音と、隣に座ってくれた黒猫のおかげで、「今日はこれでいいか」と思えるようになっていた。
日が沈んだあとの海には、不思議な力がある。
何も言わず、何も求めず、ただそこにいてくれる。それだけで、人の心のいちばん奥のほうを、そっとあたためてくれる。
もし今日、なんだか疲れてしまった人がいたら、夜のはじまりの海を思い出してみてほしい。群青の空、小さな波音、そして、となりに座る黒い影。
きっと、心のなかの波も、すこしずつ、おだやかになっていく。
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