2026年9月28日月曜日

癒される丘の上で聞く風の音と黒猫

 

九月の終わりの土曜日、朝から空はよく晴れていた。

私はその日、行き先を決めないまま家を出た。ひと月ほど前から、頭の中がずっと騒がしかった。仕事のこと、これからのこと、返しそびれたままのメッセージ。どれも大きな問題ではないのに、ひとつずつが小さな石のように胸に溜まって、夜になると寝返りのたびにごろごろと音を立てた。

電車を乗り継いで、名前も知らない小さな駅で降りた。改札を抜けると、遠くに緑色の丘が見えた。頂上にぽつんと一本、木が立っている。誰かに呼ばれたような気がして、私はそちらへ歩き出した。

丘へ続く道は細くて、足元にはススキの穂が寄り添うように揺れていた。まだ穂は銀色になりきっておらず、朝の光を受けて、うっすらと金色に透けている。ゆるやかな坂を登るうちに、汗がじんわりと背中に滲んだ。けれど不思議と、息が苦しいとは思わなかった。

半分ほど登ったところで、ふと足を止めた。

風の音がした。

町にいるときも風は吹いているはずなのに、こんなふうに「聞こえた」のは、いつぶりだろう。草の間をすり抜けていくさらさらという音。遠くの林が身を揺らす、低くてやわらかな音。それらが重なって、丘全体がひとつの大きな楽器みたいに鳴っていた。

私は目を閉じた。

耳の横を風が通り過ぎていく。頬を撫で、髪をほどき、シャツの袖をふくらませて、どこかへ行ってしまう。そのたびに、胸の中の小さな石がひとつずつ、風に連れていかれるような気がした。

目を開けて、また歩き出した。

頂上に着いたとき、一本の木の根元に、黒いものがうずくまっているのが見えた。

猫だった。

真っ黒な毛並みの、しなやかな猫。首輪はない。丸くなって座り、金色の目でじっとこちらを見ている。逃げる様子はなかった。私が数歩離れたところで立ち止まると、猫はゆっくりとまばたきをして、それから何ごともなかったように、丘の向こうへ顔を向けた。

その横顔を見て、私は思わず笑ってしまった。

先客がいたのだ。この丘の主は、きっとこの猫なのだろう。

「おじゃまします」

小さな声でそう言って、私は木の反対側の根元に腰を下ろした。草の匂いと、乾いた土の匂い。背中を預けた幹は、朝の日差しでほんのりあたたかかった。

丘の上の風は、登ってくる途中よりもずっと大きな音で鳴っていた。頭上では枝がざわざわと揺れ、葉がこすれ合って、海の波のような音を立てている。眼下には、田んぼと屋根と細い道が、ミニチュアの町のように広がっていた。

しばらくのあいだ、私は何も考えなかった。

考えないでいようと努力したのではなく、考えることが、ただ自然にどこかへ行ってしまったのだ。風の音を聞いている自分と、風の音そのものとの境目が、だんだんあいまいになっていく。

ふと気がつくと、足元に何かが触れていた。

黒猫が、いつのまにかそばまで来ていた。私の足のすぐ横で、背中を丸めて座っている。触れるか触れないかの距離。けれど、確かにそこにいる、という気配だけが伝わってくる。

私は手を出さなかった。ただ、猫と同じ方向を見た。

猫の耳が、風のたびにぴくりと動く。ひげが細かく震える。この子は、風の音をひとつも聞き逃すまいとしているみたいだった。もしかしたら猫には、私には聞こえない音まで聞こえているのかもしれない。草の奥の虫の足音とか、遠い雲の流れる音とか。

「何か聞こえる?」

そっと尋ねてみたけれど、猫は振り向かなかった。かわりに、長い尻尾をゆっくりと一度だけ揺らした。それが返事のように思えて、また少し笑えた。

太陽が高くなり、影が短くなっていく。

風はときどき強くなり、ときどき止んだ。止んだときの静けさは、風の音があったからこそ深く感じられた。音と静けさが、交互に打ち寄せる。その繰り返しの中に座っているだけで、体の芯がほどけていくのがわかった。

胸に溜まっていた石は、もうどこにも見当たらなかった。

なくなったわけではないのだろう。きっと明日になれば、また同じ場所に戻ってきている。けれど、それでもいいと思えた。石を抱えたまま、この丘に登ってこられたのだから。そして風は、何度でも吹いてくれるのだから。

帰る時間が近づいて、私は立ち上がった。ズボンについた草をはらって、木を見上げる。

「ありがとう」

木にも、風にも、猫にも、聞こえるように言った。

猫は最後まで、丘の向こうを見つめたままだった。それでいい、と思った。お礼を言われるために、そこにいるわけではないのだ。ここにいて、風を聞く。それだけで、この子はもう十分に満ちているように見えた。

丘を下りはじめると、背後から、ひときわ大きな風が吹き抜けた。

振り返ると、黒い小さな影が、金色のススキの中に溶けるように立っていた。風に毛並みを揺らしながら、こちらを見送っているように見えた。

私は手を振らなかった。かわりに、小さく頷いた。

また来よう、と思った。

騒がしい日も、眠れない夜も、きっとまたある。それでもこの丘には、風の音と、黒い猫がいる。そう思うだけで、明日の足取りは少しだけ軽くなる気がした。

夕方の電車の窓に、オレンジ色の空が流れていく。



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耳の奥では、まだ、あの風の音が鳴っていた。

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