2026年9月15日火曜日
黒猫の散歩道
夕暮れ時になると、決まってその黒猫は姿を現す。
古びた本屋の裏手から続く、細い石畳の道。両脇には蔦の絡まる塀が続き、昼間でも薄暗いその道を、黒猫はまるで自分の庭のように悠然と歩いていく。誰がつけたのか、近所の人々はその道を「黒猫の散歩道」と呼んでいた。
私が初めてその猫に出会ったのは、閉店間際の古本屋で一冊の詩集を探していたときだった。店主に道を尋ねると、彼は本から顔も上げずにこう言った。
「裏の路地を抜けるといい。ただし、黒い猫がいたら道を譲ってやってくれ。あれはこの辺りの主のようなものだから」
半信半疑のまま裏路地へ足を踏み入れると、本当にそこには一匹の黒猫がいた。艶やかな毛並みが夕日を受けて、まるで濡れたインクのように光っている。猫はちらりとこちらを一瞥すると、何事もなかったかのように歩みを進めた。
私はなぜか、その後ろをついていきたくなった。
黒猫の歩調はゆっくりとしていて、急ぐ様子は微塵もない。時折立ち止まっては、塀の隙間から差し込む光の筋に鼻先を近づけたり、落ち葉の匂いを確かめるように顔を寄せたりする。まるで、この道そのものを味わっているようだった。
道の途中には小さな祠があり、黒猫はそこで必ず一度足を止める。祠の前に座り込み、じっと目を閉じる姿は、まるで何かに祈りを捧げているようにも見えた。人間が忘れかけている「立ち止まる」という行為を、この猫は当たり前のようにやってのける。
やがて道の終わりに小さな公園が見えてきた。ブランコが一つ、錆びた滑り台が一つ。黒猫はベンチの上に飛び乗ると、そこでようやく私の方を振り返った。金色の瞳が、静かにこちらを見つめている。
「ここまでか」
そう言われた気がして、私は思わず苦笑した。猫に道案内をされるなど、思いもよらないことだった。
それから私は、時々その散歩道を歩くようになった。急ぎ足で通り過ぎるだけの日もあれば、黒猫の真似をして、ふと足を止めて光の筋を眺める日もある。不思議なことに、そうしているうちに、日々の疲れが少しずつ解けていくのを感じた。
黒猫の散歩道は、地図には載っていない。けれど、あの猫についていけば、きっと今日も同じ景色に出会えるはずだ。急がなくていい。立ち止まってもいい。そんなことを、あの黒猫はいつも静かに教えてくれる。
本を閉じるように一日を終える前に、少しだけ寄り道をしてみたくなる。そんな散歩道が、この町にはある。
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