2026年9月12日土曜日

黒猫と稲穂

黒猫と稲穂

夕暮れが近づくと、田んぼの稲穂は金色に染まり、風が吹くたびにさらさらと音を立てて揺れていた。その稲穂の間から、ひょっこりと顔を出したのは一匹の黒猫だった。

黒猫は名前を持たない野良猫だった。誰かに飼われたことはなかったが、この村の田んぼ道はいつも彼の縄張りだった。稲刈り前のこの季節が、黒猫は一年でいちばん好きだった。稲穂の間に隠れると、誰にも見つからずに昼寝ができるからだ。

その日も黒猫は稲穂の中に身を潜め、金色の穂先が風に揺れる音を聞きながら目を閉じていた。遠くでカエルの声がして、トンボが一匹、黒猫の鼻先をかすめるように飛んでいった。黒猫は片目だけ開けてそれを目で追ったが、追いかける気にはならなかった。今日はただ、この静けさに包まれていたい気分だった。

しばらくすると、田んぼのあぜ道を小さな足音が近づいてきた。近所に住む子どもが、学校帰りにこの道を通るのはいつものことだった。子どもは稲穂の間に黒い影を見つけると、足を止めてしゃがみこんだ。

「あ、また会ったね」

黒猫は逃げなかった。子どもの声には敵意がないことを、もうとっくに知っていたからだ。子どもはポケットからそっと取り出した煮干しを一つ、稲穂の間に置いた。黒猫はゆっくりと近づき、それを口にくわえると、満足そうに喉を鳴らした。

「明日も来るね」

子どもはそう言って、また学校帰りの道を歩いていった。その後ろ姿が小さくなるまで、黒猫は稲穂の上からじっと見送っていた。

日が沈み、あたり一面がオレンジ色に染まる頃、黒猫はまた稲穂の中に体を沈めた。金色の穂先が夕日を受けて、まるで小さな炎のように揺れている。黒猫はその光景を独り占めしながら、静かに目を閉じた。

季節が変われば、この稲穂もいずれ刈り取られてしまうだろう。それでも黒猫は、今この瞬間だけは、誰にも邪魔されない自分だけの世界を持っていた。稲穂の海に浮かぶ小さな黒い影は、今日もこの村のどこかで、静かに夜を待っていた。


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