2026年9月13日日曜日
黒猫とサルスベリ
夏の終わりの午後だった。
古びた一軒家の庭に、一本のサルスベリが立っている。幹はつるりと滑らかで、まるで誰かが磨き上げたようだった。枝の先には濃いピンクの花が、まだ諦めきれないというように咲き続けていた。
その根元に、一匹の黒猫がうずくまっていた。
名前は誰も知らない。この家の住人でもなければ、近所の飼い猫でもない。いつからか、この庭に現れては、サルスベリの木陰で時間を過ごすようになった、それだけの猫だった。
風が吹くたびに、サルスベリの花びらが数枚、ひらひらと舞い落ちる。黒猫はその様子を、瞬きもせずにじっと見つめていた。まるで、花びらの行き先を最後まで見届けようとしているかのように。
一枚の花びらが、黒猫の鼻先すれすれをかすめて地面に落ちた。黒猫は少しだけ首をかしげ、それから、興味を失ったようにまた目を細めた。追いかけるほどのことでもない。そう思っているようだった。
蝉の声が、遠くでまだ鳴いている。けれど、その声はどこか力尽きかけていて、夏が終わりに近づいていることを教えてくれていた。サルスベリの花は「百日紅」と書くくらいだから、まだしばらくは咲き続けるだろう。けれど、その花もいつかは終わる。黒猫はそんなことを知ってか知らずか、ただ静かに、木漏れ日の揺れる地面に体を預けていた。
しばらくすると、庭に一人の老婦人が出てきた。この家の住人である。水の入ったじょうろを手に、サルスベリの根元に近づいてくる。
黒猫は逃げなかった。もう何度もここで顔を合わせているからだろう、警戒するでもなく、ただ少しだけ体をずらして場所を空けた。
「今日も来てたのね」
老婦人はそう呟くと、じょうろの水をゆっくりと土に注いだ。水を吸った土から、夏の匂いが立ちのぼる。黒猫はその匂いを確かめるように、小さく鼻を動かした。
水やりを終えた老婦人は、しばらくその場に立ったまま、サルスベリの花を見上げていた。黒猫もつられるように、同じ方向へ視線を向ける。
濃いピンクの花の向こうに、夏の終わりの青い空が広がっていた。雲は少しずつ、秋の形に近づいているようにも見える。
「来年も、咲くといいわね」
老婦人の声に、黒猫が答えることはない。ただ、尻尾の先をゆっくりと一度だけ揺らした。それが返事なのかどうかは、誰にもわからない。
やがて老婦人は家の中へ戻っていった。庭には再び、黒猫とサルスベリだけが残される。
風がまた吹いて、花びらが数枚舞い落ちる。黒猫は変わらず、その根元にうずくまったまま、静かに夏の終わりを見送っていた。
サルスベリの花期は長い。けれど、永遠ではない。だからこそ、こうして今日という一日、この木陰で過ごす時間には、どこか特別な意味があるように思えた。
黒猫にとって、そこが特等席なのかもしれない。あるいは、ただ居心地がいいだけなのかもしれない。理由なんて、猫自身にもわからないのだろう。
日が少しずつ傾きはじめる。サルスベリの影が長く伸びて、黒猫の体をすっぽりと包み込んだ。
その影の中で、黒猫は静かに目を閉じた。
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