2026年9月15日火曜日
箸とメインクーン
古い木造アパートの一室に、一膳の箸が置いてある。
漆の剥げかけた、なんの変哲もない箸だ。持ち主が引っ越してから、もう三ヶ月が経つ。テーブルの上に忘れられたまま、誰にも使われることなく、窓から差し込む光の角度だけを頼りに一日を数えていた。
そこへ現れたのが、隣の空き部屋から迷い込んできた一匹のメインクーンだった。
体は大きく、毛はふさふさとして、まるで小さなライオンのようだった。人懐っこいのか、それとも単に興味本位なのか、その猫は開けっぱなしの窓からするりと入り込み、部屋の中をゆっくりと歩き回った。
そして、テーブルの上の箸に気づいた。
前足でそっと触れてみる。箸はころりと転がり、乾いた音を立てた。その音に驚いたのか、メインクーンは一歩下がり、それからまた興味深そうに近づいた。
しばらくの間、猫と箸は見つめ合っていた。動くはずのないものが動いたことに、猫は戸惑っているようだった。何度も前足でつつき、箸が転がるたびに、耳をぴくりと動かした。
やがて飽きたのか、メインクーンは箸のそばに寝そべった。大きな体を丸め、箸を挟むようにして眠り始めた。日差しが二つの影を重ね、部屋の中に静かな時間が流れていく。
使われなくなった道具と、行き場のない猫。どちらも、この部屋にとっては招かれざる客だったのかもしれない。けれどその午後だけは、まるで最初からそこにいたかのように、寄り添っていた。
夕方になり、風が出てきた。カーテンが揺れ、光が橙色に変わる頃、メインクーンはゆっくりと体を起こした。名残惜しそうに箸に鼻先を寄せると、来た時と同じように、窓の隙間からそっと出ていった。
残されたのは、また一膳の箸だけ。
けれど、さっきまでと同じ箸ではないような気がした。誰かに一度でも寄り添われたものは、少しだけ違って見える。そんな気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。
窓の外では、夕焼けが静かに街を染めていた。
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