2026年9月15日火曜日

青い空とベランダと黒猫

青い空とベランダと黒猫

 三階建てのアパートの、いちばん端の部屋。そのベランダに、その黒猫はいつからか座るようになっていた。

 誰が名付けたわけでもないが、住人たちはいつしか彼のことを「クロ」と呼ぶようになっていた。飼い主がいるのかいないのか、首輪はしていない。けれど毛並みはつやつやとしていて、決して野良のようにやせ細ってはいなかった。

 その日も空は驚くほど青かった。雲ひとつなく、洗い立てのシーツのように澄み渡っている。クロはベランダの手すりの下、日なたのタイルの上に体を丸め、目を細めていた。

 二階に住む老婦人は、洗濯物を干すたびにクロの姿を見つけては、小さく笑みをこぼした。 「今日もここにいるのね」  声をかけても、クロは振り向きもしない。ただ耳だけをぴくりと動かして、それが返事のすべてだった。

 しばらくすると、どこからか風が吹いてきた。物干し竿にかかったシャツの袖がふわりと揺れる。クロは薄目を開け、風の匂いを確かめるように鼻を上に向けた。それから、また何事もなかったかのように目を閉じた。

 この街では、季節が変わるたびに空の色も少しずつ変わっていく。夏の終わりの空は高く澄んでいて、遠くの入道雲が白い塊となって浮かんでいる。クロはそんな空の変化を、誰よりも早く感じ取っているようだった。

 夕方になると、老婦人は決まってベランダに小皿を置く。中身は特に何もない、ただの水だ。クロはそれを一口だけ舐めると、また元の場所に戻って丸くなる。多くを望まない、静かな生き方だった。

 やがて日が傾き、空はオレンジ色に染まっていく。クロは伸びをして、手すりの隙間からゆっくりと下を見下ろした。眼下には帰宅を急ぐ人々の影が、長く伸びながら通り過ぎていく。

 誰も彼のことを気に留めない日もあれば、子どもが指をさして「あ、猫だ」と声をあげる日もある。それでもクロは変わらず、そこにいる。青い空の下、小さなベランダという名の自分だけの場所で。

 夜が来て、空に星が瞬き始める頃、クロの姿はいつの間にか消えている。次にまた誰かが見上げたとき、彼はきっと同じ場所に、同じように座っているのだろう。

 青い空と、ベランダと、一匹の黒猫。それだけの、けれど確かにそこにある、小さな物語だった。


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