2026年9月15日火曜日

夕焼けと海と黒猫

夕焼けと海と黒猫

防波堤に続く小さな坂道を下ると、潮の匂いがふわりと鼻先をくすぐった。今日も一日の終わりに、この場所へ来てしまう。理由なんて、うまく説明できない。ただ、ここに来ると、心の中のざわめきが少しずつ静かになっていく気がするのだ。

堤防の先端に、いつもの黒猫がいた。夕方になると必ずここに現れる、あの猫だ。名前も知らない。誰の猫かもわからない。けれど、いつからか、この時間にこの場所で会うのが当たり前になっていた。

黒猫は海を見つめていた。太陽はゆっくりと水平線に近づき、空はオレンジ色から深い紅色へと変わっていく。波の音だけが、その静かな時間を彩っていた。

「今日も、ここにいたんだね」

そう声をかけても、黒猫は振り返らない。ただ、尻尾の先が小さく揺れた。それだけで、なんだか返事をもらったような気持ちになる。

隣に腰を下ろし、同じ景色を見つめる。水面が夕焼けを吸い込んで、まるで海全体が燃えているように見えた。カモメが一羽、遠くの空を横切っていく。

思えば、最近はいつも何かに追われていた。仕事のこと、人間関係のこと、うまくいかない小さなこと。頭の中はいつも忙しく、立ち止まる時間なんてなかった。

でも、この黒猫と並んで海を見ていると、そんなことがどうでもよく思えてくる。答えを出さなくてもいい。何かを決めなくてもいい。ただ、目の前の景色を、そのまま受け取ればいい。

太陽が完全に沈むと、空は紫色に染まり、一番星がぽつりと灯った。黒猫はゆっくりと立ち上がり、伸びをすると、こちらをちらりと見た。まるで「今日はこれくらいにしておこうか」と言うように。

そして、静かに堤防を降りていった。その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。

明日もきっと、同じ時間に、この場所へ来るだろう。黒猫がいるかどうかはわからない。けれど、夕焼けと海があれば、それだけで十分な気がした。

坂道を上りながら、ふと振り返る。海はもう暗く、波の音だけが遠くから聞こえていた。今日も一日、なんとか生きた。それでいいのだと、誰かに言われたような気がした。


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