2026年9月29日火曜日

癒される秋夜の一番星とメインクーンという猫

 

 日が暮れるのが、ずいぶん早くなった。

 縁側の窓を少しだけ開けると、ひんやりとした空気が部屋に流れ込んでくる。昼間の名残の温もりと、夜の入り口の冷たさが混ざった、秋だけの匂いがした。遠くの草むらでは、虫たちが今夜も小さな演奏会を始めている。

 その縁側の端に、彼はいた。

 メインクーンのトビ。名前の由来は、子猫の頃にトンビのような茶色い斑模様をしていたから、というだけの単純なものだ。けれど今では、堂々とした体つきに、ふさふさの長い毛、耳の先にはちょんと飾り毛まで生やして、名前よりずっと立派な猫になっている。

 トビは、香箱座りをして空を見上げていた。

 夕焼けはもう終わりかけていた。西の空の低いところに、みかん色の光が細く残っているだけで、その上には淡い紫が広がり、さらに上には、深い藍色がゆっくりと降りてきている。

 私は温かいお茶を持って、トビの隣に腰をおろした。

「今日も、待っているの?」

 トビは返事をしない。ただ、しっぽの先を一度だけ、ぱたりと動かした。

 それが、いつもの「そうだよ」の合図だった。

 彼が空を見上げるようになったのは、この秋に入ってからだ。夏の間は、庭の日陰で長々と寝そべっているばかりだったのに、朝晩の風が涼しくなった頃から、日が沈むとこの縁側に出てくるようになった。

 最初は、虫の声が気になるのだろうと思っていた。けれど、しばらく一緒に過ごしているうちに、気づいた。

 トビが見ているのは、虫でも、庭木でもない。

 空の、いちばん最初に光る場所だ。

 お茶をひと口すすると、湯気がふわりと夜気に溶けた。

 藍色はいよいよ濃くなり、家々の屋根の輪郭が黒く沈んでいく。どこかの台所から、煮物のやさしい香りが流れてきた。犬の散歩をする人の足音が、路地を通り過ぎていく。町全体が、一日の終わりの支度をしているような時間だった。

 そのとき、トビの耳が、ぴくりと動いた。

 琥珀色の瞳が、まっすぐ一点を見つめている。

 私も、その視線をたどった。

 西の空の、みかん色の残り火のすぐ上。まだ青さの残る空の中に、ぽつんと、小さな光があった。

 針の先でつついたような、ほんの小さな白い光。

 けれど、それは確かにそこにあって、じっと静かに瞬いていた。

「あ……一番星」

 思わず声がもれた。

 トビは、私の声には振り向かなかった。ただ、その光を、まるで古い友人と再会したように、じっと見つめ続けている。

 ゆっくりと、まばたきをひとつ。

 猫の世界では、ゆっくりとしたまばたきは「あなたのことが好きだよ」という挨拶なのだと、以前どこかで読んだことがある。

 もしかしたら、トビは毎晩、空に向かってそれを送っていたのだろうか。

 誰よりも先に、夜の始まりを知らせてくれる小さな星に。

 そう思うと、胸のあたりが、じんわりと温かくなった。

 一番星は、他の星が姿を見せる前に、ひとりで空に立っている。

 誰にも気づかれなくても、光る準備ができたら、まず自分が光る。あとから来る星たちのために、夜の扉をそっと開けるように。

 そして、それに気づいて、毎晩ちゃんと迎えてあげる猫がここにいる。

 なんて素敵な約束事だろう、と思った。

 やがて、ひとつ、またひとつと、星が増えはじめた。

 空の青は完全に夜の色に変わり、庭の柿の木のシルエットが、墨で描いたようにくっきりと浮かび上がる。虫の声は少しずつ大きくなって、まるで星の数に合わせて合唱が増えていくかのようだった。

 トビが、ふう、と小さく息をついた。

 それから、のっそりと体を動かして、私の膝の上に前足をかけた。

 ずしり、と重みが伝わる。メインクーンの体は、大きい。けれど、その重さは不思議と心地よかった。

「役目は、終わったの?」

 問いかけると、トビは喉の奥で、ごろごろと低い音を鳴らした。

 それは、遠くで回る古い機械のような、あるいは、静かな夜にひっそりと湧く泉のような、やわらかな音だった。

 私は彼の背中をゆっくりと撫でた。長い毛は、夜気を吸って少しひんやりしている。けれど、その奥には、太陽をたっぷり溜め込んだような温もりが眠っていた。

 ふと、空を見上げる。

 一番星は、いつのまにか、たくさんの星の中に紛れていた。

 どれがそうだったのか、もう分からない。

 けれど、それでいいのだと思う。

 最初に光ったことを、誰かが覚えていなくても。それでも星は光るし、それを見届けた猫は、こうして満足そうに喉を鳴らす。

 私は、冷めかけたお茶を飲みほした。

 最近、いろいろなことが忙しくて、空を見上げる余裕なんてなかった。スマートフォンの小さな画面ばかり眺めて、気づけば夜になっていた日も多かった。

 でも、トビは毎晩ここにいて、変わらず、空を待っていたのだ。

 教えられたのは、猫のほうだった。

 急がなくても、夜はちゃんとやってくる。

 待っていれば、最初の光は、ちゃんと空に灯る。

「明日も、一緒に見ようか」

 そうつぶやくと、トビは目を閉じたまま、しっぽの先を、ぱたり、と動かした。

 それが、いつもの「そうだよ」の合図。

 縁側には、星明かりと、虫の声と、猫の寝息。

 秋の夜は、静かに、深く、更けていく。

 そして私は、もう少しだけ、このままでいようと思った。

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