2026年9月17日木曜日
野良猫と港
港の朝は、潮の匂いから始まる。
コンクリートの岸壁に、灰色の縞猺が一匹、丸くなって眠っていた。名前はない。誰もつけてくれたことがないから、自分でも名前というものをよく知らない。ただ、漁船のエンジン音で目が覚めることだけは知っていた。
「今日も獲れたようだな」
縞猫は耳だけをぴくりと動かして、船着き場に近づいてくる足音を聞き分ける。長靴の音、台車の車輪の音、そして誰かが魚箱を下ろす、あの湿った木の匂い。仲間たちが物陰から次々と顔を出す。白黒の若い猫、片耳が欠けた老猫、まだ乳離れしたばかりの三毛の子猫。誰もが同じ方角を見ていた。
港というのは不思議な場所だ、と縞猺はいつも思う。人間たちは毎朝、海の向こうから何かを持ち帰ってくる。魚だけではない。笑い声だったり、疲れた背中だったり、時には涙の匂いだったりする。猫たちはそれを、ただ静かに見ている。
「ほら、今日のぶんだ」
漁師の一人が、いつものように魚のあらを少し分けてくれた。縞猺はゆっくりと歩み寄り、礼を言うように一度だけ尻尾を立てる。言葉はなくても、それで十分に伝わるものがある。
昼になると、猫たちは倉庫の陰やロープの束の上でそれぞれの時間を過ごす。片耳の老猫は、遠くを見つめたまま動かない。若い頃、この港に来る前はどこにいたのか、誰も聞いたことはないし、老猫も語らない。ただ、夕暮れになると決まって、沖に浮かぶ小さな灯台の光を目で追っている。
三毛の子猫が、老猫の隣にちょこんと座った。
「おじいちゃん、何を見てるの」
老猫は答えない。けれど、子猫はそれ以上聞かなかった。港で生きるということは、答えのない問いをそのままにしておく術を覚えることでもあるからだ。
夕方、船が戻ってくる時間になると、港はまた騒がしくなる。網を洗う音、魚市場の呼び声、カモメの鳴き声。猫たちはそのざわめきの中で、それぞれの居場所を見つけて丸くなる。誰に決められたわけでもないのに、いつの間にか縄張りのようなものができていて、それでいて争うこともあまりない。海の恵みは、分け合うには十分すぎるほどあるから。
夜が更けると、港は静かな青に染まる。係留された船が、波にゆられてぎしりと音を立てる。縞猺は岸壁の縁に腰かけて、水面に映る街灯の光を眺めていた。
どこから来て、どこへ行くのか。そんなことを考える猫はいない。ただ、今日という日に、この港で誰かと同じ風を感じたということ。それだけで、十分だった。
灯台の光が、規則正しく海を撫でていく。縞猺はゆっくりと目を閉じ、潮騒に耳を澄ませながら、いつもの場所で丸くなった。
野良猫達の港には、今日もまた、静かな夜が訪れる。
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