2026年10月19日月曜日

癒される秋のタニソバが群れ咲く水辺とマンチカンという猫

癒される秋のタニソバが群れ咲く水辺とマンチカンという猫

  秋の終わりの午後、私は古い水路のほとりを歩いていた。

 町外れの小さな水辺である。名前もなく、地図にもほとんど載っていない。ただ、毎年この季節になると、水際いっぱいにタニソバが群れ咲くことを、私は知っていた。

 タニソバは、とても小さな花だ。白と淡い紅を混ぜたような、金平糖ほどの粒が、細い茎の先に寄り集まっている。ひとつひとつは目立たない。けれど、水辺一面に広がると、霞がかかったように淡く、やわらかな色の絨毯になる。

 風が吹くと、花が一斉に揺れた。水面にその影が映り、ゆらゆらと形を変える。私はしばらく、ただそれを眺めていた。

 そのとき、足もとで何かが動いた。

 見下ろすと、一匹の猫が、花の間からこちらを見上げていた。

 マンチカンだった。

 短い脚で、ちょこんと座っている。毛並みは淡いクリーム色で、背中のあたりに、ほんのりとトラ模様が混じっていた。丸い目が琥珀色に光っている。

「こんにちは」

 思わず声をかけると、猫は小さく首をかしげた。それから、短い脚をちょこちょこと動かして、私の隣まで歩いてきた。逃げる様子はまったくない。まるで、最初から待ち合わせをしていたかのように。

 水辺には、石でできた古い腰掛けがあった。私が腰を下ろすと、猫も当たり前のような顔で、その隣に座った。人間と猫が、少し距離を空けて、並んで同じ方向を見ている。

 水の流れは、とてもゆっくりだった。

 さらさらという音が、ほとんど聞こえないほどに静かで、それがかえって、耳の奥に心地よく残る。タニソバの花が風に触れるたび、さわさわと、乾いた小さな音がした。

 猫の背中が、午後の光を受けて、金色に縁取られていた。

 私は、ふと自分の肩に、ずっと力が入っていたことに気がついた。

 ここ数週間、何をしていても落ち着かなかった。やるべきことは次々と湧いてくるのに、どれも中途半端なまま積み上がっていく。そういう日々のなかで、いつの間にか、息をするのも浅くなっていたのだと思う。

 ゆっくりと、息を吸ってみた。

 水の匂いと、枯れかけた草の匂いと、乾いた秋の光の匂い。それが、胸の奥まで静かに入ってきた。

 隣で、猫が小さくあくびをした。

 ふわあ、と口を開けて、ぱたん、と閉じる。それだけのことなのに、私は自然と笑ってしまった。

 猫は、急いでいない。

 どこへ行く必要もなく、何かを成し遂げる必要もなく、ただ、ここにいる。ここで、花を見て、水を聞いて、光を浴びている。それで、もう十分に満ち足りているように見えた。

 その姿を見ていると、私が抱えていた焦りが、少しずつ、水に溶けていくようだった。

 しばらくして、猫が立ち上がった。

 短い脚で、石の腰掛けからぴょんと降りると、タニソバの群れのなかへ、ゆっくりと入っていく。花が揺れ、淡い紅色の粒が、猫の背中にふわりと触れた。

 猫は一度だけ、こちらを振り返った。

 琥珀色の目が、静かに私を見た。

 そして、何も言わずに、花の向こうへ消えていった。

 私は、しばらくその場所から動けなかった。

 水面には、変わらずタニソバの影が揺れていた。風は少し冷たくなってきたけれど、胸の奥には、さっきまでなかったあたたかさが、小さく灯っていた。

 帰り道、私は何度か、後ろを振り返った。

 猫の姿は、もうどこにもなかった。けれど、あの短い脚で、ちょこちょこと歩いていく後ろ姿を思い出すたび、口もとがゆるんだ。

 特別なことは、何も起きなかった。

 ただ、秋の水辺に座って、猫と並んで、花を眺めていただけだ。

 けれど、そういう時間こそが、疲れた心をいちばんやさしく撫でてくれるのだと、私はその日、静かに知ったのだった。

 タニソバの花言葉は、特にないらしい。

 それでもあの日の水辺には、確かに、言葉にならないやさしさが咲いていた。

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