夜の十時を過ぎると、この部屋はようやく静かになる。
洗い物を終えて、電気をひとつだけ残す。窓を少しだけ開けると、カーテンがふわりと持ち上がって、夜の空気が部屋に入ってきた。昼間の熱をすっかり手放した、少し湿り気のある風だった。
「ちりん」
軒先に吊るした小さな風鈴が、ひとつだけ鳴った。続けて鳴るわけではない。風が思い出したように通り抜けるときだけ、ひとつ、ふたつ。その間の長さが、ちょうどいい。
ソファに腰を下ろしてマグカップを両手で包むと、足元で何かが動いた。
黒猫のクロが、音もなく窓辺の棚に飛び乗った。
名前は安直だけれど、本人は気に入っているようで、呼べば尻尾の先だけで返事をしてくれる。暗がりに溶ける毛並みの中で、黄色い目だけが月の色を拾って光っていた。
クロは窓枠に前足をそろえて、じっと外を見つめている。耳が小さく動く。風の音を聞いているのだと思う。
葉っぱのこすれる音。遠くを走る電車の低い響き。どこかの家の窓から漏れる、小さなテレビの笑い声。そんな夜のかけらを、クロは一つずつ確かめているようだった。
「何か聞こえる?」
声をかけても、振り向かない。ただ、長い尻尾がゆっくりと一度だけ揺れた。「静かにして」と言われた気がして、私は思わず笑って口をつぐんだ。
また風が吹いた。
カーテンが大きく膨らんで、クロの背中を撫でていく。目を細めて、ほんの少しだけ顎を上げる。風を毛並みで受け止めるその横顔は、世界でいちばん満ち足りているように見えた。
思えば今日は、朝からずっと慌ただしかった。電車は混んでいたし、メールは溜まっていたし、昼ごはんは立ったまま済ませた。ため息をつく暇もなく一日が終わっていくことに、少しだけ疲れていた。
けれど、この窓辺にいると、そういうものが一枚ずつ剥がれていく。
マグカップの湯気がゆらゆらと揺れて、風に溶ける。ほうじ茶の香ばしさが、夜の匂いと混ざり合う。急ぐ必要のあるものなんて、本当はひとつもなかったのだと思えてくる。
ふと、膝の上に重みが加わった。
いつの間にか、クロが窓辺から降りて、私の膝に収まっていた。あたたかくて、少し重たくて、確かにそこにいる。喉の奥から、ごろごろと低い音が響き始めた。
風の音と、風鈴の音と、猫の喉の音。
三つの音が重なって、部屋の中にゆるやかな波をつくっていく。私はそっと背中を撫でながら、目を閉じた。
「ちりん」
風鈴が、またひとつ鳴った。
窓の外では、夜がゆっくりと深くなっていく。星の数は多くないけれど、そのかわりに、遠い街の灯りがぽつぽつと瞬いていた。
特別なことは何も起きない。それでも、こういう夜が確かに自分を支えてくれていると、私は思う。
クロの寝息が、規則正しく聞こえてきた。
私はカーテンの揺れをもう少しだけ眺めてから、残ったお茶をゆっくりと飲み干した。窓は、閉めないでおこう。夜風が眠るまで、このまま少しだけ開けておく。
おやすみ、クロ。
おやすみ、今日の私。
窓を開けて、風の音に耳を澄ませるだけの夜があってもいいのかもしれません。
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