2026年10月16日金曜日

癒される秋の夕焼けと茜色に染まる芒野とメインクーンという猫

癒される秋の夕焼けと茜色に染まる芒野とメインクーンという猫

  秋の終わりが近づくと、決まって足が向かう場所がある。町外れの丘をひとつ越えた先に、ひっそりと広がる芒野だ。

 夕方の四時を少し過ぎたころ、私は薄手のコートの襟を立てて、細い土の道を歩いていた。昼間の暖かさはもう空の高いところへ逃げてしまって、頬に触れる風が、ほんのり冷たい。

 丘を登りきると、視界がふっと開けた。

 西の空が、燃えるような茜色に染まっている。雲の縁は金色に縁取られ、その下に広がる芒の穂が、夕日を受けて一本一本、淡い橙に透けていた。風が渡るたびに、野原全体が大きな波のようにうねる。さわさわ、さわさわ。音というより、空気そのものが囁いているようだった。

 私は道の脇に古びた木の切り株を見つけて、そっと腰を下ろした。

 何をするでもなく、ただ空を見る。

 そういう時間を、いつから持たなくなっていたのだろう。朝は慌ただしく、昼は追われ、夜は画面の光の中で終わる。空の色が一日のうちにこんなにも変わるということを、私はずいぶん長いこと、忘れていた。

 そのときだった。

 芒の間から、がさり、と小さな音がした。

 風の音ではない。私が息をひそめて目を凝らすと、穂の波をかき分けるようにして、大きな影がゆっくりと姿を現した。

 猫だった。

 それも、見たことのないほど大きな猫だ。ふさふさとした長い毛は、茶と黒と白が混ざり合う美しい縞模様で、首のまわりには獅子のようなたてがみが豊かに広がっている。耳の先には、筆の穂先のような飾り毛。そして何より目を引いたのは、背後でゆったりと揺れる、堂々とした長い尾だった。

 メインクーン。

 名前だけは知っていた。「優しい巨人」と呼ばれる、あの猫だ。

 その猫は、私に気づくと足を止め、琥珀色の大きな瞳でじっとこちらを見つめた。逃げる様子はない。かといって、近づいてくるわけでもない。ただ、夕日を背にして、まるで絵画の中の一場面のように立っている。

 毛先が、茜色の光を透かして、きらきらと輝いていた。

「こんにちは」

 思わず、小さな声が出た。

 猫は、返事のかわりに、ゆっくりと瞬きをした。

 猫のゆっくりとした瞬きは、「敵意はないよ」「安心しているよ」という合図なのだと、昔どこかで聞いたことがある。私も真似をして、ゆっくり、ゆっくりと瞬きを返してみた。

 すると猫は、ふい、と顔をそらして、私の足元まで歩いてきた。そして、とん、と私の隣の地面に座り込んだ。

 体が大きい分、座る姿にも不思議な落ち着きがある。まるでずっと前からここが自分の定位置だったとでも言うように、猫は西の空へ顔を向けた。

 私と猫は、並んで夕焼けを見た。

 空の茜色は、少しずつ深みを増していく。橙から朱へ、朱から薔薇色へ。雲の影が長く伸び、芒野は一面、燃え残りの炎のような色になった。

 ときどき、風がひときわ強く吹いて、穂先から白い綿毛がふわりと舞い上がる。それは夕日の光をまとって、小さな金色の粒のように、空へ溶けていった。

 隣で、猫が低く喉を鳴らし始めた。

 ごろごろ、ごろごろ。

 その音は、風の音と、芒の擦れる音と、遠くで鳴く鳥の声に、静かに混ざっていく。不思議だった。街の雑踏の中では、どんな音も私の心をざわつかせるのに、この野原の音は、どれも私の中にある何かをほどいていく。

 肩に入っていた力が、いつの間にか抜けていた。

 胸の奥につかえていた、言葉にならない重たいものが、夕焼けの色に溶けて、少しずつ薄まっていく気がした。

 大丈夫。

 誰かに言われたわけではないのに、そんな言葉が、ふっと心に浮かんだ。

 どれくらいの時間が過ぎただろう。

 気がつくと、空の茜色は端のほうから藤色に変わりはじめていた。一番星が、遠くの山の上で、小さく瞬いている。

 猫が、すっと立ち上がった。

 大きな体をぐっと伸ばし、それから私の顔を一度だけ見上げる。琥珀色の瞳に、最後の夕日がひとすじ映り込んでいた。

 そして猫は、芒の波の中へ、ゆっくりと歩いていった。

 長い尾が、穂の間でゆらり、ゆらりと揺れる。やがてその姿は、茜色の野原の向こうに、静かに見えなくなった。

 私はしばらく、その場を動けなかった。

 夢だったのかもしれない、と思う。けれど、隣の地面には、猫が座っていたぶんだけ、芒の穂が優しく倒れていた。

 立ち上がって、丘を下りる。

 背中に残る夕日のぬくもりが、まるで誰かの手のひらのようだった。

 秋の夕焼けは、毎日どこかで、誰にも気づかれないまま終わっていく。けれど、足を止めて見上げさえすれば、空はいつでも、こんなにも惜しみなく美しい色を見せてくれる。

 疲れた日には、少しだけ遠回りをして、空の見える場所へ行ってみてほしい。

 もしかしたらそこで、あなただけの「優しい巨人」が、静かに隣に座ってくれるかもしれない。

 茜色の芒野は、今日も風に揺れている。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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