その日は、雲ひとつない秋晴れだった。
借りていた本を返すついでに、少しだけ図書館に寄ることにした。自動ドアが開くと、外の風の音がすっと遠ざかる。紙とインクと、ほんのり古い木の匂い。この匂いに包まれるだけで、肩の力が半分くらい抜けていく。
返却カウンターで本を渡し、奥の閲覧席へ向かう。いちばん好きなのは、南向きの大きな窓の前にある長机だ。午前の光がたっぷり差し込んで、机の上に窓枠の影が四角く並んでいる。
その光の中に、先客がいた。
黒猫だった。
艶のある毛並みが、日なたの中で深い藍色にも見える。窓際の出窓にきちんと前足をそろえて座り、目を細めて外を眺めている。首には小さな赤い首輪。どうやら、近所の誰かの飼い猫が散歩の途中で立ち寄ったらしい。図書館の人も慣れているのか、誰も驚いた様子はなかった。
私は音を立てないように、隣の椅子をそっと引いた。
猫は一度だけ、ちらりとこちらを見た。金色の瞳が、秋の光を丸ごと閉じ込めたみたいに澄んでいる。それから「どうぞ」とでも言うように、ふいと視線を窓の外へ戻した。
私は持ってきた文庫本を開く。ページをめくる紙の音が、静かな空間にやわらかく溶けていく。窓の向こうでは、銀杏の葉が一枚、また一枚と、ゆっくり落ちていった。
どれくらい経っただろう。
気づくと、本の内容より、隣の気配ばかり感じていた。ときどき、ふぅ、と小さな寝息のような音がする。尻尾の先が、とん、と出窓を叩く。陽だまりの温度が、ページ越しに手の甲へ伝わってくる。
何かをしなくていい時間というのは、実はとても贅沢なものだと思う。
急ぐ理由も、返す言葉も、ここにはない。ただ光があって、本があって、隣に黒猫がいる。それだけで、今日という一日はもう十分に満たされている気がした。
ふと、猫が大きく伸びをして、出窓からしなやかに降りた。そのまま私の足もとを通り抜けるとき、尻尾がくるりと、ふくらはぎをかすめていく。ほんの一瞬のあいさつだった。
黒い背中は、本棚の間をゆったりと進み、やがて見えなくなった。
残された出窓には、猫のかたちにほんの少しだけ、あたたかさが残っている。私はそこへ手を伸ばしかけて、やめた。そのぬくもりは、そのままにしておきたかった。
本を閉じて、窓の外を見上げる。
秋の空は、どこまでも高く青い。
帰り道、きっと私は少しだけ歩く速度をゆるめるだろう。銀杏の落ち葉を踏む音を、いつもより丁寧に聞きながら。
図書館の窓際には、静けさと光と、通りすがりの黒猫がくれる、ささやかな幸せがあった。
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