その坂道を見つけたのは、仕事帰りに一本だけ違う路地へ入った、ほんの気まぐれからでした。
古い石垣に沿ってゆるやかに続く坂道は、のぼるほどに足もとが明るくなっていきます。途中で、ふいに視界がひらけました。屋根の連なりのずっと向こうに、海が横たわっています。午後の光を受けた水面は、細かな銀色の粒をまいたようにきらきらとゆれていました。
思わず足が止まりました。
潮の匂いをふくんだ風が、坂の下からゆっくりとのぼってきます。どこかの家の窓辺で、風鈴が一度だけ小さく鳴りました。
ふと、道のわきの低い石段に目がとまりました。
そこに、黒猫がいました。
艶のある毛並みが日なたの熱をたっぷり吸って、背中がほんのり金色に縁どられています。前足をきちんとそろえ、まるでこの景色の持ち主のような顔で、海のほうを向いて座っていました。
近づいても、逃げません。金色の目がちらりとこちらを見て、「ああ、あなたも休憩ですか」と言うように、ゆっくりまばたきをしました。
私は少し離れた石垣に、そっと腰をおろしました。
坂をのぼってきた足が、じんわり熱をもっています。深く息を吸うと、胸の奥にたまっていた一日の重さが、吐く息といっしょにほどけていくようでした。
黒猫は大きなあくびをひとつして、石段の上で身体を丸めます。しっぽの先だけが、リズムをとるように、ぱたん、ぱたんと動いていました。波の音は遠すぎて聞こえないはずなのに、そのしっぽの動きが、海のゆれと重なって見えるのが不思議でした。
沖のほうを、白い船がゆっくり横切っていきます。進んでいるのかどうか分からないほど静かな速さで、水面に細い線を引いていました。
急ぐ理由は、いくつも抱えていたはずでした。けれどこの坂の途中では、どれもが少し遠い話に思えます。
どのくらい、そうしていたでしょうか。
気がつくと、黒猫はすっかり目を閉じていました。呼吸にあわせて、背中がゆるやかにふくらんでは、しぼんでいきます。海の光が、その毛並みの上でちらちらと踊っていました。
その寝顔を見ていたら、肩に入っていた力が、いつのまにか抜けていることに気づきました。
私も、少しだけ目を閉じてみます。風のにおい。石垣のぬくもり。遠くの船の気配。
黒猫がひと休みするこの坂道で、私もいっしょに、ひと休みさせてもらうことにしました。
坂道は、のぼるためだけの道ではなかったのだと思います。ときどき立ち止まって、景色をながめて、誰かの寝息を聞くための道でもあるのでしょう。
海はあいかわらず、きらきらと光っています。
黒猫はまだ、夢の中でした。
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