2026年11月3日火曜日

癒される海の見える坂道とひと休みする黒猫

癒される海の見える坂道とひと休みする黒猫

 その坂道を見つけたのは、仕事帰りに一本だけ違う路地へ入った、ほんの気まぐれからでした。

古い石垣に沿ってゆるやかに続く坂道は、のぼるほどに足もとが明るくなっていきます。途中で、ふいに視界がひらけました。屋根の連なりのずっと向こうに、海が横たわっています。午後の光を受けた水面は、細かな銀色の粒をまいたようにきらきらとゆれていました。

思わず足が止まりました。

潮の匂いをふくんだ風が、坂の下からゆっくりとのぼってきます。どこかの家の窓辺で、風鈴が一度だけ小さく鳴りました。

ふと、道のわきの低い石段に目がとまりました。

そこに、黒猫がいました。

艶のある毛並みが日なたの熱をたっぷり吸って、背中がほんのり金色に縁どられています。前足をきちんとそろえ、まるでこの景色の持ち主のような顔で、海のほうを向いて座っていました。

近づいても、逃げません。金色の目がちらりとこちらを見て、「ああ、あなたも休憩ですか」と言うように、ゆっくりまばたきをしました。

私は少し離れた石垣に、そっと腰をおろしました。

坂をのぼってきた足が、じんわり熱をもっています。深く息を吸うと、胸の奥にたまっていた一日の重さが、吐く息といっしょにほどけていくようでした。

黒猫は大きなあくびをひとつして、石段の上で身体を丸めます。しっぽの先だけが、リズムをとるように、ぱたん、ぱたんと動いていました。波の音は遠すぎて聞こえないはずなのに、そのしっぽの動きが、海のゆれと重なって見えるのが不思議でした。

沖のほうを、白い船がゆっくり横切っていきます。進んでいるのかどうか分からないほど静かな速さで、水面に細い線を引いていました。

急ぐ理由は、いくつも抱えていたはずでした。けれどこの坂の途中では、どれもが少し遠い話に思えます。

どのくらい、そうしていたでしょうか。

気がつくと、黒猫はすっかり目を閉じていました。呼吸にあわせて、背中がゆるやかにふくらんでは、しぼんでいきます。海の光が、その毛並みの上でちらちらと踊っていました。

その寝顔を見ていたら、肩に入っていた力が、いつのまにか抜けていることに気づきました。

私も、少しだけ目を閉じてみます。風のにおい。石垣のぬくもり。遠くの船の気配。

黒猫がひと休みするこの坂道で、私もいっしょに、ひと休みさせてもらうことにしました。

坂道は、のぼるためだけの道ではなかったのだと思います。ときどき立ち止まって、景色をながめて、誰かの寝息を聞くための道でもあるのでしょう。

海はあいかわらず、きらきらと光っています。

黒猫はまだ、夢の中でした。

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