一、朝の海
十月の終わりの海は、夏の海とは違う顔をしている。
空は薄い水色で、雲のふちだけがほんのり金色に縁どられていた。低い位置から差しこむ光は、触れたら指先があたたかくなりそうなほどやわらかい。波は急ぐことなく寄せては返し、そのたびに砂浜がしっとりと色を変えた。
人影のない浜辺の端に、小さな足音がひとつ、ぽん、ぽん、と続いている。
マンチカンの「ムギ」だった。
二、短い足の散歩
ムギの足は短い。けれど本人は、そのことを少しも気にしていないらしい。胴をゆらりと揺らしながら、小さな歩幅で、確かな足どりで砂を踏んでいく。
しっぽはまっすぐ空に向かって立っていて、先だけがときどき、考えごとをするようにくるりと曲がる。
砂浜には、丸い足あとが点々と並んだ。その足あとを、あとから来た波がそっと撫でるように消していく。消えてしまうのに、ムギは振り返らない。前だけを見て、また、ぽん、ぽん、と歩いていく。
「消えたら、また付ければいいんだよ」
そんな声が聞こえてきそうな背中だった。
三、流木と貝がら
波打ちぎわに、白く乾いた流木が一本横たわっていた。
ムギは立ち止まり、鼻先をそっと近づける。潮の匂い、乾いた木の匂い、遠い場所から運ばれてきた何かの匂い。ひげがふるふると動いて、琥珀色の目がゆっくり細くなった。
流木のそばには、小さな巻き貝がひとつ。朝の光を受けて、内側が真珠のように淡く光っている。ムギは前足でちょんとつついてみて、貝が動かないとわかると、満足そうにその場に座りこんだ。
座ると、短い足はほとんど砂に隠れてしまう。まるい背中だけが、光の中にちょこんと浮かぶ。
波の音が、一定のリズムで耳に届く。
寄せて、返して、また寄せて。
世界でいちばん古い子守唄みたいだと、ふと思った。
四、やさしい光の時間
太陽が少しずつ高くなると、海の色が変わっていった。灰青から、緑がかった青へ。水面には細かな光の粒がちらちらと散らばり、砂浜は淡い蜂蜜色に染まっていく。
ムギの毛並みにも、その光は降りそそいだ。背中の一本一本が金色の縁どりを帯びて、風が吹くたびにやわらかく波打つ。
秋の風は少しだけ冷たい。けれど日だまりの中にいると、その冷たささえ心地よく感じられる。冷えた空気と、あたたかな光。その両方を同時に受けとめられるのは、秋の海辺だけの贅沢かもしれない。
ムギは目を閉じて、顔を光のほうへ向けた。
何も考えていない顔だった。ただ、いまここにある朝を、まるごと味わっている顔だった。
五、帰り道
しばらくして、ムギはすっと立ち上がった。ぐうっと伸びをして、ひとつ小さなあくびをする。そして、来た道とは少しだけ違う方向へ、ぽん、ぽん、と歩きはじめた。
行き先を決めているわけではないのだろう。足の向くまま、光の向くまま。それでも不思議と、迷っているようには見えない。
砂浜に残る足あとは、また新しい線を描いていく。
波がそれを消す。
ムギがまた付ける。
その繰り返しを眺めているうちに、胸の奥にたまっていた小さな重さが、潮が引くようにすうっと遠のいていることに気づいた。
終わりに
忙しい毎日の中では、足あとを残すことにも、消えることにも、つい力が入ってしまう。
けれど、短い足で砂浜を歩く一匹の猫を見ていると、思う。
ちゃんと前に進めていれば、歩幅は小さくてもいいのだと。
消えていく足あとがあっても、また次の一歩を、ぽん、と踏み出せばいいのだと。
秋の海辺のやさしい光の中で、そんなことを教えてもらった朝だった。
もし今、少し疲れているなら、深呼吸をひとつ。目を閉じて、波の音とあたたかな光を思い浮かべてみてください。
ムギの足音が、きっと、どこかで聞こえてくるはずです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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