2026年2月11日水曜日

龍神様の話

山あいの小さな村に、田中さんはひとりで暮らしていた。
年齢はもう五十を越え、毎日を静かに過ごす日々。
仕事も引退し、忙しかった日々は遠い記憶の中にある。
それでも、心のどこかにぽっかりと、何か満たされないものを感じていた。

ある雨上がりの夕方、田中さんは村外れの川沿いを散歩していた。
水面には夕陽が反射し、川のせせらぎが耳に心地よい。
ふと、川の流れの中で、青白く光るものに気づいた。
それは、龍神様の姿だった。

長い体をくねらせ、光の粒をまとい、穏やかに水面を泳ぐ龍神様。
田中さんは息を呑み、思わず立ち止まった。
「…龍神様…?」
龍神様は、ゆっくりと頭を上げ、田中さんを見つめた。
その眼差しは優しく、深く、まるで長い時間を知っているようだった。

田中さんは、昔のことを思い出した。
忙しい日々、失敗や後悔、心の疲れ…。
それらすべてを抱えながら生きてきた自分を、龍神様は静かに見守ってくれている気がした。
「疲れたでしょう」と、龍神様の声が聞こえるような気がした。

田中さんは川辺に腰を下ろし、深呼吸をひとつする。
雨上がりの澄んだ空気が、胸の奥に染み込む。
龍神様は、ただ静かに、川の流れとともにそこにいるだけ。
何も命令も助言もなく、ただ存在しているだけで、心が少しずつ軽くなる。

やがて、夕陽が山の端に沈み、川は黄金色に輝いた。
龍神様はゆっくりと姿を消し、川は再び静かな流れを取り戻す。
田中さんは、胸の中にぽかんと温かさが広がるのを感じた。
「ありがとう…」
小さくつぶやく声に、龍神様はもういないのに、心が満たされる。

その夜、田中さんは静かに眠った。
夢の中で、龍神様は再び川を泳ぎ、微笑みを送ってくれる。
長い人生の疲れも、悩みも、すべてを優しく包み込むような、
穏やかで温かい存在だった。

そして田中さんは、日々の散歩の中で、
龍神様に出会った川辺を訪れるのが、ささやかな楽しみになった。
そこでは、静かに流れる水と、かつて見た龍神様の優しさを思い出すだけで、
心がほっと癒されるのだった。

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