山あいの小さな村に、田中さんはひとりで暮らしていた。
年齢はもう五十を越え、毎日を静かに過ごす日々。
仕事も引退し、忙しかった日々は遠い記憶の中にある。
それでも、心のどこかにぽっかりと、何か満たされないものを感じていた。
ある雨上がりの夕方、田中さんは村外れの川沿いを散歩していた。
水面には夕陽が反射し、川のせせらぎが耳に心地よい。
ふと、川の流れの中で、青白く光るものに気づいた。
それは、龍神様の姿だった。
長い体をくねらせ、光の粒をまとい、穏やかに水面を泳ぐ龍神様。
田中さんは息を呑み、思わず立ち止まった。
「…龍神様…?」
龍神様は、ゆっくりと頭を上げ、田中さんを見つめた。
その眼差しは優しく、深く、まるで長い時間を知っているようだった。
田中さんは、昔のことを思い出した。
忙しい日々、失敗や後悔、心の疲れ…。
それらすべてを抱えながら生きてきた自分を、龍神様は静かに見守ってくれている気がした。
「疲れたでしょう」と、龍神様の声が聞こえるような気がした。
田中さんは川辺に腰を下ろし、深呼吸をひとつする。
雨上がりの澄んだ空気が、胸の奥に染み込む。
龍神様は、ただ静かに、川の流れとともにそこにいるだけ。
何も命令も助言もなく、ただ存在しているだけで、心が少しずつ軽くなる。
やがて、夕陽が山の端に沈み、川は黄金色に輝いた。
龍神様はゆっくりと姿を消し、川は再び静かな流れを取り戻す。
田中さんは、胸の中にぽかんと温かさが広がるのを感じた。
「ありがとう…」
小さくつぶやく声に、龍神様はもういないのに、心が満たされる。
その夜、田中さんは静かに眠った。
夢の中で、龍神様は再び川を泳ぎ、微笑みを送ってくれる。
長い人生の疲れも、悩みも、すべてを優しく包み込むような、
穏やかで温かい存在だった。
そして田中さんは、日々の散歩の中で、
龍神様に出会った川辺を訪れるのが、ささやかな楽しみになった。
そこでは、静かに流れる水と、かつて見た龍神様の優しさを思い出すだけで、
心がほっと癒されるのだった。
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