海沿いの町に住む高橋さんは、引退してからのんびりとした毎日を送っていた。
それでも、どこか胸の奥にぽっかりと空いたものを感じることがある。
ある朝、いつものように浜辺を歩いていると、遠くの水平線に大きな影が見えた。
それは、悠然と泳ぐ巨大なクジラだった。
高橋さんが波打ち際に立つと、クジラはゆっくりと近づいてきた。
まるで、「こちらへおいで」と誘うかのように、尾ひれで軽く水面を叩く。
恐る恐る、波に足を踏み入れると、海が柔らかく体を包み込む。
そして次の瞬間、高橋さんは不思議な感覚にとらわれた。
海の底まで、ゆっくりと沈んでいくような、夢の中に入ったような感覚だ。
クジラは水中を泳ぎながら、時折ひれで水流を作り、
高橋さんをふんわりと押し進める。
光が差し込む青い海の中、色とりどりの魚たちが周りを泳ぎ、
海草は風に揺れるようにしなやかに揺れていた。
高橋さんは目を見張り、自然と笑みがこぼれる。
「こんな世界が、まだあるんだ…」
思わず声に出すと、クジラはまるでうなずくように、体をくねらせて見せた。
巨大な体でありながら、優しさと穏やかさに満ちている。
高橋さんは海の中で、まるで時間が止まったかのような静けさと温かさに包まれた。
しばらくすると、クジラはゆっくりと深みへ泳ぎ始める。
高橋さんも自然に後を追うように泳ぐと、海の中で大きな波紋が広がる。
それは、まるで心の奥に残った疲れや悩みを洗い流してくれるかのようだった。
やがて浜辺に戻ると、朝の光が海面をきらめかせていた。
高橋さんは深呼吸をひとつして、心の奥に残った温かさを感じる。
「ありがとう…」
小さくつぶやくと、クジラの姿はもう見えなくなったが、海の静かな呼吸が、
確かに自分の心を癒してくれたことを教えてくれる。
それから、高橋さんは毎朝、浜辺を訪れるようになった。
心の疲れを癒す小さな冒険を思い出しながら、
海の色、波の音、そして心の奥に残ったクジラの優しさを感じる時間は、
日々の暮らしに欠かせない、穏やかで幸せなひとときになったのだった。
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