2026年2月11日水曜日

企業戦士の話

田村さんは、かつて「企業戦士」と呼ばれていた男だった。
バブル期、残業は美徳、出張は任務、
「24時間働けますか?」の言葉には、背筋がピンと伸びたものだ。
朝は6時に出社、夜は終電、時には深夜のコンビニ弁当で腹を満たしながら、
世界の裏側へ飛ぶこともあった。

しかし、今の田村さんは違う。
朝はゆっくりコーヒーを淹れ、窓際で新聞を広げる。
「24時間働けますか?」? もう笑い話だ。
あの頃の自分を思い出すと、胸の奥で懐かしさと苦笑いが入り混じる。

ある日、田村さんは近所のスーパーで、かつての戦友に偶然出会った。
「おお、田村! まだ働いてるのか?」と声をかけられた。
田村さんは肩をすくめて答える。
「いやあ、今は仕事より、毎朝のトーストが戦場だよ。」
二人は思わず笑い合った。

帰り道、田村さんは公園のベンチに腰を下ろす。
かつての自分なら、ここで資料を広げ、次のミッションを考えていただろう。
でも今は、ベンチに座るだけで十分だった。
子どもたちが笑いながら走り回るのを眺め、
犬と散歩する人を見送り、風の匂いを吸い込む。
それだけで、心の中が満たされていく。

ふと、田村さんは小さな笑いをこらえた。
昔は深夜まで働き、書類の山を前に「俺は戦士だ」と自分を鼓舞していたのに、
今はトーストを焦がしただけで一日を振り返り、「ああ、今日も無事だ」と思う。
戦場は書類や会議室から、ゆるやかな日常に変わっていたのだ。

田村さんはベンチで目を閉じ、深呼吸をひとつする。
「よくやったな、昔の俺。」
小さな笑いとともに、心に温かさが広がった。
企業戦士としての栄光も苦労も、今となっては笑い話。
でも、その日々があったからこそ、今の静かな時間が愛おしい。

田村さんは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
「次の戦いは、ゆっくりコーヒーを淹れることだ。」
小さな戦場に向かう足取りは、どこか誇らしげで、
それでいて、どこまでも穏やかだった。

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