田村さんは、かつて「企業戦士」と呼ばれていた男だった。
バブル期、残業は美徳、出張は任務、
「24時間働けますか?」の言葉には、背筋がピンと伸びたものだ。
朝は6時に出社、夜は終電、時には深夜のコンビニ弁当で腹を満たしながら、
世界の裏側へ飛ぶこともあった。
しかし、今の田村さんは違う。
朝はゆっくりコーヒーを淹れ、窓際で新聞を広げる。
「24時間働けますか?」? もう笑い話だ。
あの頃の自分を思い出すと、胸の奥で懐かしさと苦笑いが入り混じる。
ある日、田村さんは近所のスーパーで、かつての戦友に偶然出会った。
「おお、田村! まだ働いてるのか?」と声をかけられた。
田村さんは肩をすくめて答える。
「いやあ、今は仕事より、毎朝のトーストが戦場だよ。」
二人は思わず笑い合った。
帰り道、田村さんは公園のベンチに腰を下ろす。
かつての自分なら、ここで資料を広げ、次のミッションを考えていただろう。
でも今は、ベンチに座るだけで十分だった。
子どもたちが笑いながら走り回るのを眺め、
犬と散歩する人を見送り、風の匂いを吸い込む。
それだけで、心の中が満たされていく。
ふと、田村さんは小さな笑いをこらえた。
昔は深夜まで働き、書類の山を前に「俺は戦士だ」と自分を鼓舞していたのに、
今はトーストを焦がしただけで一日を振り返り、「ああ、今日も無事だ」と思う。
戦場は書類や会議室から、ゆるやかな日常に変わっていたのだ。
田村さんはベンチで目を閉じ、深呼吸をひとつする。
「よくやったな、昔の俺。」
小さな笑いとともに、心に温かさが広がった。
企業戦士としての栄光も苦労も、今となっては笑い話。
でも、その日々があったからこそ、今の静かな時間が愛おしい。
田村さんは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
「次の戦いは、ゆっくりコーヒーを淹れることだ。」
小さな戦場に向かう足取りは、どこか誇らしげで、
それでいて、どこまでも穏やかだった。
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