夕方の五時を少し過ぎたころ、浜辺には誰もいなかった。
波は急ぐことなく寄せては返し、そのたびに砂の色を濃くしたり薄くしたりしている。空は西の端からゆっくりと橙色に染まり、まだ青さの残る東の空との境目に、薄い桃色の帯が静かに横たわっていた。
潮の匂いを含んだ風が、頬をそっと撫でていく。
僕はその日、理由もなく海まで歩いてきた。仕事で何かあったわけではない。ただ、一日の終わりに、胸の奥にたまった小さな埃のようなものを、どこかへ逃がしたかったのだと思う。
砂浜を歩いていくと、少し先の波打ち際に、白く乾いた流木が横たわっていた。長い年月、海に揉まれ、陽に焼かれて、骨のように滑らかになった一本の木だ。
その流木の上に、何かがいた。
最初は、毛布か、置き忘れられたクッションかと思った。けれど近づくにつれ、それがゆっくりと呼吸をしていることに気づいた。
大きな猫だった。
ふさふさとした長い毛は、茶と黒と銀が混ざり合った、まるで秋の森のような色をしている。胸元の毛は豊かに広がり、風が吹くたびに、やわらかな波のように揺れた。耳の先には、ちょんと飛び出した房毛。そして、尾は体と同じくらい立派で、流木の端からふわりと垂れ下がっていた。
メインクーン。
そう呼ばれる種類の猫だと、僕は知っていた。けれど、実際に見る姿は、写真で見るよりずっと穏やかで、ずっと堂々としていた。
猫は、僕に気づいていたはずだ。それでも、逃げもしなければ、こちらを警戒する様子もなかった。ただ、琥珀色の目を細めて、まっすぐ海のほうを見つめていた。
僕は少し離れた砂の上に、そっと腰を下ろした。
何も言わず、何もせず、ただ同じ方向を見る。
太陽は水平線に近づき、海面に一本の金色の道をつくっていた。その光が、猫の毛の先を縁取り、全身がうっすらと輝いているように見える。
波の音が、一定のリズムで続いている。
ざあ、ざあ、と。
遠くで、鳥が一羽、ゆっくりと空を横切っていった。
不思議なことに、猫のそばにいると、時間の流れ方が変わるような気がした。急がなくていい。何かを成し遂げなくてもいい。ただ今日という日が、静かに終わっていくのを見届ければいい。猫の背中が、そう語っているようだった。
しばらくして、猫が小さく、ふぅ、と息を吐いた。
それは、ため息というより、満ち足りた人が思わずこぼす吐息に似ていた。僕もつられて、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。肩の力が、いつの間にか抜けていることに気づく。
太陽が、ついに水平線へと触れた。
空は一気に深い茜色になり、雲の縁が燃えるように赤く光った。海は空の色をそっくり映し取り、どこまでが空で、どこからが海なのか、わからなくなる。
流木に腰かけた猫の影が、砂の上に長く伸びていた。
その影の先が、僕の足元にそっと触れている。
なんだか、それだけのことが、とても嬉しかった。
やがて空の色は、茜から紫へ、紫から藍へと移り変わっていった。一番星が、東の空にぽつりと灯る。
猫はゆっくりと立ち上がり、背中を大きく伸ばした。それから流木からひらりと降りて、砂の上に小さな足跡を残しながら、僕の前を通り過ぎていく。
すれ違いざま、猫はちらりとこちらを見た。
ほんの一瞬、目が合った。
何も言わない。けれど、その目は、「今日もお疲れさま」と言っているように思えた。
猫の姿が、薄闇の向こうへと溶けていく。ふさふさの尾が、最後にひと揺れして、見えなくなった。
僕はしばらく、その場に座ったまま動けなかった。
流木は、さっきまで猫がいたことなど忘れたように、静かに波を待っている。そこにはまだ、ほんのりと温もりが残っているような気がした。
立ち上がると、膝についた砂がさらさらと落ちた。
胸の奥にたまっていた埃は、いつの間にか、潮風が連れていってくれたらしい。
帰り道、振り返ると、海はもう夜の色をしていた。それでも、水平線のあたりには、名残のような淡い光がひと筋だけ残っている。
また明日も、きっといつもの一日が始まる。
けれど今夜だけは、あの猫の背中を思い出しながら、ゆっくり眠れそうだった。
夕暮れの海と、流木と、一匹のメインクーン。
特別なことは何も起きなかった。それなのに、心がこんなにも静かに満たされている。
そんな時間が、世界のどこかに、ちゃんと存在している。
それだけで、少しだけ、明日が優しくなる気がした。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿