第一章 朝の海へ
その町の海辺には、古びた木のベンチがひとつだけ置かれていた。
白いペンキは潮風にあらかた持っていかれ、座面には小さな傷がいくつも残っている。それでも不思議なことに、そのベンチに腰を下ろすと、誰もが少しだけ肩の力を抜く。
朝の六時。空はまだ薄い桃色で、波は眠そうにゆっくりと砂を撫でていた。
私は毎朝、眠気の残る頭のままこの浜辺まで歩いてくる。特別な理由があるわけではない。ただ、部屋の中にいると考え事ばかりが増えてしまうので、外の空気に預けに来るのだ。
その日もいつものようにベンチへ向かうと、先客がいた。
第二章 ベンチの先客
ベンチの端っこに、小さな猫が座っていた。
茶色と白のまだら模様。ふわふわの毛並みに、驚くほど短い脚。マンチカンだった。
首輪はしていない。けれど野良猫にしては毛並みが整っていて、どこか品のようなものがある。猫は私に気づいても逃げるでもなく、ちらりと一度こちらを見ただけで、すぐに視線を海へ戻した。
その背中は、まるで「どうぞ、お隣へ」と言っているようだった。
私は少し迷ってから、ベンチの反対側にそっと腰を下ろした。
木のきしむ音。波の音。遠くで鳴くカモメの声。
猫は水平線を見つめたまま、微動だにしない。短い脚をちょこんと揃え、背筋をぴんと伸ばして座る姿は、まるで海の番人だった。
第三章 水平線の向こう
「何を見てるの?」
思わず声に出してしまってから、自分で笑ってしまった。猫が答えてくれるわけがない。
けれど猫は、ゆっくりと耳だけをこちらに向けた。聞いてはくれているらしい。
水平線の上では、空と海の境目が少しずつ金色に染まり始めていた。夜と朝がゆっくり入れ替わっていく時間。
ふと思う。水平線というのは、不思議な線だ。あんなに遠くにあるのに、いつでも目の前にあるように見える。近づこうとしても、決して近づけない。それでも毎朝、ちゃんとそこにある。
「待ってるのかな」
私はつぶやいた。
猫は何も言わない。ただ、まっすぐに海を見ている。誰かを待っているのか、それとも、ただ水平線が好きなだけなのか。理由なんてどちらでもいいのかもしれない。
第四章 波の音のなかで
しばらく、私たちは何も話さなかった。いや、話していたのは私だけで、それも心のなかでだ。
最近、仕事が忙しかったこと。うまくいかなかった小さな出来事。誰にも言えなかった、ささいな不安。
波が寄せるたびに、そういったものが少しずつ洗い流されていくような気がした。
ふいに、膝のあたりに温かいものが触れた。
見ると、猫がいつの間にか私のほうへ寄ってきていて、短い脚でちょこんと私の膝の横に座っていた。小さな体から、ほんのりとした体温が伝わってくる。
「ありがとう」
そう言うと、猫は目を細めて、小さく「にゃ」と鳴いた。
それだけだった。励ましも、アドバイスもない。ただ隣にいてくれる。それがこんなにも心を軽くするなんて、私は知らなかった。
第五章 金色の朝
太陽が水平線から顔を出した。
海面がきらきらと光り、世界が一瞬で明るくなる。ベンチも、砂浜も、猫の毛並みも、すべてが金色に縁取られていく。
猫はその光のなかで、静かに目を閉じた。まるで朝の光を全身で味わっているようだった。
私も真似をして目を閉じてみる。まぶたの裏があたたかい。潮の香りが鼻をくすぐる。遠くの波の音が、ゆりかごのように私を揺らす。
こんなふうに、何もしない時間を過ごしたのはいつ以来だろう。
何かを達成しなくていい。誰かの役に立たなくていい。ただ、ここに座って、朝が来るのを見ているだけでいい。
第六章 明日もここで
気がつくと、朝の光はすっかり高くなっていた。
散歩の人や、犬を連れた人が浜辺に増え始める。そろそろ帰る時間だ。
私が立ち上がると、猫もベンチからひょいと降りた。短い脚でとことこと歩き、少し先で振り返る。
「また明日ね」
猫は返事の代わりに、ゆらりとしっぽを揺らした。
それから、ふわふわの背中を見せて、防波堤の向こうへ消えていった。
私はもう一度だけ水平線を見た。朝の海は穏やかで、どこまでも青い。
明日もきっと、このベンチに猫はいるだろう。そして私も、また海を見に来るだろう。
特別なことは何も起きない。それでいい。
世界のどこかに、ただ水平線を見守ってくれている小さな誰かがいる。そう思うだけで、今日一日を歩いていける気がした。
疲れた日には、海辺のベンチに腰かけて、水平線をぼんやり眺めてみてください。もしかしたら、隣に小さな番人が座ってくれるかもしれません。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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