2026年7月8日水曜日

黒猫と稲

黒猫と稲

窓の外に、青い稲が揺れていました。

夏のはじめの田んぼは、まだ黄金色ではありません。
水を含んだ土の上に、細い稲がすっと伸びて、風が吹くたびに小さく波をつくります。

黒猫は、窓辺に座ってそれを見ていました。

何かを狙っているわけでもなく、鳴くわけでもなく、ただ静かに田んぼのほうを見つめています。
その横顔は、まるで遠い昔から稲の成長を知っているようでした。

田んぼには、朝の光がやわらかく落ちています。
水面には空が映り、雲が流れ、そこに稲の影が細く重なります。

人間にとって稲は、お米になるものです。
毎日のご飯になり、湯気になり、茶碗の中で当たり前のようにそこにあります。

けれど、黒猫にとっての稲は、少し違うものに見えているのかもしれません。
風の音を運ぶもの。
小さな虫を隠すもの。
水面に揺れる光を、やさしくほどくもの。

黒猫の耳が、ぴくりと動きました。
田んぼのどこかで、カエルが鳴いたのです。

稲の間から聞こえる小さな声。
水の匂い。
土の湿り気。
遠くで鳴る自転車の音。

それらが全部まざって、夏の田舎の午後になっていきます。

黒猫は、前足をそろえたまま、じっとしています。
眠そうにも見えるし、何かを考えているようにも見えます。

もしかすると黒猫は、稲が実るまでの時間を知っているのかもしれません。
今日すぐに変わるものではないけれど、毎日少しずつ背を伸ばし、やがて頭を垂れていくことを。

人間は、すぐに結果を求めてしまうことがあります。
早く育ってほしい。
早く形になってほしい。
早く安心したい。

でも稲は、急ぎません。
水を吸い、光を受け、風に揺れながら、ただ自分の季節を進んでいきます。

黒猫もまた、急ぎません。
窓辺でまるくなり、目を細め、稲の揺れる音を聞いています。

その姿を見ていると、少しだけ心が落ち着きます。
何かを大きく変えなくても、今日の中にある小さな景色を見つめるだけで、気持ちは少し静かになるのだと思えます。

夕方になると、田んぼの色は少し深くなります。
青かった稲に、夕日の金色が混ざります。
水面はゆっくり光を返し、風は昼よりもやさしくなります。

黒猫は、ようやく立ち上がりました。
伸びをして、しっぽをゆっくり揺らし、それからもう一度だけ稲のほうを見ます。

まるで、今日の見守りは終わったと言っているようでした。

稲は明日も、少しだけ伸びるのでしょう。
黒猫も明日また、窓辺に座るのでしょう。

大きな出来事は何も起こらないかもしれません。
けれど、そういう一日こそ、本の一ページのように静かに残るのだと思います。

黒猫と稲。
それは、急がずに育つものを見つめる、小さな夏の物語です。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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