丘のふもとでバスを降りると、空気の色が変わった気がした。
秋の終わりに近い午後の光は、夏のそれよりもずっと薄くて、やわらかい。その光のなかを、私は丘へ続く細い道をゆっくり登っていった。
坂の途中で、ふいに視界がひらけた。
丘の斜面いっぱいに、コキアが丸い頭を並べていた。夏にはみずみずしい緑だったはずのそれが、いまは燃えるような赤に染まっている。ひとつひとつが、まるで誰かが丁寧に丸めて置いていった毛糸玉みたいだ。風が吹くたびに、赤い波がさわさわと斜面をすべっていく。
「……きれい」
声に出してみて、自分の声がやけに小さいことに気づいた。大きな声を出すのがもったいないような景色だった。
道ばたのベンチに腰をおろして、しばらく何も考えずにそれをながめていた。仕事のことも、返しそびれたメッセージのことも、ここまで来る電車のなかではずっと頭の隅に居座っていたのに、赤い波を見ているうちに、いつのまにか遠くへ流れていった。
そのときだった。
丘のてっぺんに、黒い影がひとつ、ぽつんとあった。
最初は石かと思った。けれど風が吹いた瞬間、その輪郭がふわりと揺れた。毛だ。風にあおられて、細い毛先がいっせいに同じ方向へなびいている。
黒猫だった。
丘のいちばん高いところにある小さな岩の上で、猫は背筋をすっと伸ばして座っていた。まわりは一面の赤。そのなかで、その黒だけが、まるで墨を一滴落としたようにくっきりと浮かんでいる。
私は息をひそめて、そっと立ち上がった。驚かせないように、ゆっくり、ゆっくりと斜面の脇の小道を登っていく。足もとでコキアの枝がかさりと鳴った。
猫はこちらを見なかった。
金色の目を細めて、ただ風のほうを向いている。ひげが震えて、耳がときどきぴくりと動く。風が強くなると、体の毛がぶわっと逆立って、猫はまるで一回り大きくなったみたいに見えた。それでも逃げもせず、岩の上から動かない。
ああ、この子は風を楽しんでいるのだ、と思った。
十歩ほどの距離まで近づいたところで、私も足を止めた。それ以上は近づかないことにした。ここは、この猫の丘なのだから。
すこし離れた場所に腰をおろして、私も同じ方向を向いてみた。
風が頬をなでていく。ほんのり乾いた草の匂いと、日だまりの暖かさが混ざったような匂いがした。足もとのコキアが揺れて、さらさらと音を立てる。遠くのほうで、鳥が一声だけ鳴いた。
猫がゆっくりとまばたきをした。
その仕草が、なんだか「ここにいてもいいよ」と言ってくれているように思えて、私は胸のあたりがじんわり温かくなった。
どれくらいそうしていただろう。
日がゆっくり傾いていって、丘全体が、赤からもっと深い茜色へと変わりはじめた。コキアの赤と夕日の橙が溶け合って、斜面はまるで燃え残った炭火のように、やさしく光っている。その真ん中で、黒猫のシルエットだけが、ひときわ静かに、ひときわ美しく立っていた。
やがて猫は、ひょいと岩から降りた。
しっぽをゆらりと立てて、赤い海のなかへ、音もなく歩いていく。コキアの丸い頭のあいだを、黒い背中が見え隠れして、そのたびに風が毛並みをそっとなでていった。
私は最後まで、その後ろ姿を見送った。
帰りのバスの時間が近づいて、丘をおりる道の途中で一度だけ振り返った。てっぺんの岩の上には、もう誰もいなかった。けれど、風に揺れるコキアの波は、さっきと変わらずやさしく続いていた。
ポケットのなかで、冷えた指先がいつのまにかあたたまっている。
何かを手に入れたわけじゃない。けれど、来たときより少しだけ、息が深くできるようになった気がした。
秋の丘は、何も言わずに、そっと背中を押してくれる。
赤いコキアと、風にふかれる黒猫。そんな景色がどこかにあるのだと思うだけで、また明日からも、すこしだけ穏やかに歩いていけそうだった。
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