夕暮れの街に、やさしい怪獣が現れた。
誰もその足音を聞かなかった。
ビルとビルのあいだに沈むオレンジ色の空を、そっと揺らすだけの、静かな重さだったからだ。
怪獣は大きかった。
雲に届きそうな背中、電線をくすぐる長いしっぽ。
けれどその目は、雨上がりの水たまりみたいに、どこまでも澄んでいた。
人々は最初、逃げた。
ニュースは騒ぎ、SNSは燃え、画面の向こうで言葉が飛び交った。
「危険だ」「街が壊れる」「早く排除しろ」
怪獣は、ただ立っていた。
逃げ遅れた子どもがひとり、交差点の真ん中で泣いていた。
信号は赤のまま変わらない。
車は止まり、世界は固まる。
怪獣はゆっくりと膝をついた。
アスファルトが少しだけひび割れる。
けれど、その大きな手のひらは、そっと風を起こしただけだった。
子どもを包むように、ビル風を遮り、
怖くないよ、と言う代わりに、あたたかい影を落とした。
泣き声は、やがて止んだ。
怪獣は、人の言葉を持たなかった。
だから壊さないことで、気持ちを伝えた。
踏みつぶさないことで、意思を示した。
夜になると、怪獣は街の外れの川辺に座った。
川面に映る自分の姿を、少しだけ寂しそうに見つめる。
本当は、触れたかった。
本当は、話したかった。
でも、その体は大きすぎた。
翌朝、怪獣は姿を消していた。
どこにもいない。
ただ、倒れているはずだった古い橋が、なぜか補強されていて、
枯れていた公園の木に、少しだけ緑が戻っていた。
誰も気づかない。
あれは怪獣が、夜のあいだに、そっと直していったことを。
街はまた、いつもの速度で動き出す。
ニュースは別の話題を追い、
人々は忙しく、やさしさを忘れそうになる。
けれど、風がやわらかく吹く日、
ビルの窓が夕日にきらめく日、
ふと、あの大きな影を思い出す人がいる。
壊す力よりも、守る力のほうが、
ほんとうはずっと強いのだと。
やさしい怪獣は、
いまもどこかで、
誰にも踏まれないように、小さなものをかばっている。
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