山に登ったのは、ほんの軽い気持ちだった。
小学五年生のタクヤにとって、それは「ちょっとした冒険」くらいのつもりだった。
父親と二人で歩く山道。
鳥の声がして、風が木を揺らしている。
でも、ほんの少しの油断だった。
分かれ道で、父親とはぐれてしまったのだ。
最初は大丈夫だと思った。
「すぐ見つかるだろう」
そう思っていた。
だけど、山はどこを見ても同じ景色だった。
道も、木も、岩も、全部同じに見える。
気がつけば、太陽は傾き始めていた。
胸がドキドキして、足が震える。
「どうしよう…」
泣きそうになったそのとき、父親の言葉を思い出した。
「山で迷ったら、むやみに歩くな。落ち着け」
タクヤは深呼吸をした。
一度、大きく息を吸う。
そして、小さな木の下に座った。
暗くなっていく山を見ながら、怖い気持ちを押し込めた。
夜の山は、昼とはまるで別の世界だった。
風の音、木のきしむ音、遠くの動物の声。
怖くて、何度も涙が出そうになった。
でもタクヤは思った。
「泣いても朝は早く来ない」
だから、じっと待った。
ただ、じっと。
長い長い夜だった。
そしてやっと、山の向こうが少しずつ明るくなった。
朝日が木の間から差し込んだとき、
遠くから声が聞こえた。
「タクヤー!」
父親の声だった。
タクヤは立ち上がった。
昨日までなら、きっと泣きながら走っていただろう。
でもその日は違った。
大きく手を振って、しっかりした声で答えた。
「ここだよ!」
父親が駆け寄ってきて、強く抱きしめた。
「怖かっただろう」
タクヤは少しだけ笑った。
「うん。…でも、待ってた」
その顔を見た父親は、少し驚いた。
昨日までの子どもの顔ではなかった。
たった一晩。
山の中で過ごしたその時間が、
タクヤを少しだけ大人にしていた。
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