2026年3月6日金曜日

山で一晩、大人になった日

山に登ったのは、ほんの軽い気持ちだった。
小学五年生のタクヤにとって、それは「ちょっとした冒険」くらいのつもりだった。

父親と二人で歩く山道。
鳥の声がして、風が木を揺らしている。

でも、ほんの少しの油断だった。
分かれ道で、父親とはぐれてしまったのだ。

最初は大丈夫だと思った。
「すぐ見つかるだろう」
そう思っていた。

だけど、山はどこを見ても同じ景色だった。
道も、木も、岩も、全部同じに見える。

気がつけば、太陽は傾き始めていた。
胸がドキドキして、足が震える。

「どうしよう…」

泣きそうになったそのとき、父親の言葉を思い出した。

「山で迷ったら、むやみに歩くな。落ち着け」

タクヤは深呼吸をした。
一度、大きく息を吸う。

そして、小さな木の下に座った。
暗くなっていく山を見ながら、怖い気持ちを押し込めた。

夜の山は、昼とはまるで別の世界だった。
風の音、木のきしむ音、遠くの動物の声。

怖くて、何度も涙が出そうになった。

でもタクヤは思った。
「泣いても朝は早く来ない」

だから、じっと待った。
ただ、じっと。

長い長い夜だった。

そしてやっと、山の向こうが少しずつ明るくなった。

朝日が木の間から差し込んだとき、
遠くから声が聞こえた。

「タクヤー!」

父親の声だった。

タクヤは立ち上がった。
昨日までなら、きっと泣きながら走っていただろう。

でもその日は違った。

大きく手を振って、しっかりした声で答えた。

「ここだよ!」

父親が駆け寄ってきて、強く抱きしめた。

「怖かっただろう」

タクヤは少しだけ笑った。

「うん。…でも、待ってた」

その顔を見た父親は、少し驚いた。

昨日までの子どもの顔ではなかった。

たった一晩。
山の中で過ごしたその時間が、
タクヤを少しだけ大人にしていた。

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