春の少し前の、まだ空気が冷たい午後だった。
庭のすみっこで、ぼくは小さな不思議を見つけた。
木の枝に、ぽこっとくっついた茶色いかたまり。
「カマキリの卵だ。」
図鑑で見たことがあったから、すぐにわかった。
ぼくはちょっと宝物を見つけた気分になって、その枝ごとそっと折った。
家に持って帰って、しばらく眺めていたけれど、どこに置けばいいのかわからない。
結局、机の引き出しを開けて、そっと中に入れた。
「あとで観察しよう。」
そう思って、引き出しを閉めた。
だけど、子どもの「あとで」は、だいたい忘れられてしまう。
学校の宿題や、友だちとの遊び。
テレビや漫画。
ぼくの毎日は、別のことでいっぱいになっていった。
カマキリの卵のことなんて、すっかり忘れてしまっていた。
そして春が来た。
ある日、机の中を整理しようと思って、久しぶりに引き出しを開けた。
そこには、茶色い卵の殻と、小さな黒い点のようなものがたくさんあった。
ぼくは最初、それが何なのかすぐにはわからなかった。
けれど、少しして思い出した。
「あ……カマキリの卵だ。」
小さなカマキリたちは、ちゃんと生まれていた。
だけど、引き出しの中は外の世界につながっていない。
窓もなく、草もなく、風も入ってこない。
カマキリの子どもたちは、机の中から出ることができなかった。
ぼくはしばらく、じっと引き出しの中を見ていた。
春は、ちゃんと来ていたのに。
ぼくが忘れてしまった場所で、静かに終わってしまった命があった。
その日、ぼくは本棚から昆虫の本を取り出した。
ページをめくると、カマキリの卵の写真が載っている。
「外にあれば、ここからたくさん出てくるんだ…」
ぼくは小さくつぶやいた。
机の引き出しは、いつもの机のままだった。
だけど、それ以来、ぼくは思う。
生きものの家は、人間の机の中じゃない。
ちゃんと、空の下にあるんだ。
春になるたびに、ぼくはそのことを思い出す。
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