2026年3月12日木曜日

男の子とカマキリの卵

春の少し前の、まだ空気が冷たい午後だった。

庭のすみっこで、ぼくは小さな不思議を見つけた。
木の枝に、ぽこっとくっついた茶色いかたまり。

「カマキリの卵だ。」

図鑑で見たことがあったから、すぐにわかった。
ぼくはちょっと宝物を見つけた気分になって、その枝ごとそっと折った。

家に持って帰って、しばらく眺めていたけれど、どこに置けばいいのかわからない。

結局、机の引き出しを開けて、そっと中に入れた。

「あとで観察しよう。」

そう思って、引き出しを閉めた。

だけど、子どもの「あとで」は、だいたい忘れられてしまう。

学校の宿題や、友だちとの遊び。
テレビや漫画。

ぼくの毎日は、別のことでいっぱいになっていった。

カマキリの卵のことなんて、すっかり忘れてしまっていた。

そして春が来た。

ある日、机の中を整理しようと思って、久しぶりに引き出しを開けた。

そこには、茶色い卵の殻と、小さな黒い点のようなものがたくさんあった。

ぼくは最初、それが何なのかすぐにはわからなかった。

けれど、少しして思い出した。

「あ……カマキリの卵だ。」

小さなカマキリたちは、ちゃんと生まれていた。

だけど、引き出しの中は外の世界につながっていない。
窓もなく、草もなく、風も入ってこない。

カマキリの子どもたちは、机の中から出ることができなかった。

ぼくはしばらく、じっと引き出しの中を見ていた。

春は、ちゃんと来ていたのに。
ぼくが忘れてしまった場所で、静かに終わってしまった命があった。

その日、ぼくは本棚から昆虫の本を取り出した。

ページをめくると、カマキリの卵の写真が載っている。

「外にあれば、ここからたくさん出てくるんだ…」

ぼくは小さくつぶやいた。

机の引き出しは、いつもの机のままだった。

だけど、それ以来、ぼくは思う。

生きものの家は、人間の机の中じゃない。
ちゃんと、空の下にあるんだ。

春になるたびに、ぼくはそのことを思い出す。

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