夕方の光がやわらかく街を包んでいた。
男の子は自転車のペダルを軽く踏みながら、
ゆっくりとした速度で道を進んでいた。
急ぐ理由もなく、
ただ風を感じるためだけのような時間だった。
交差点に差しかかり、
信号が赤に変わる。
男の子は止まり、
ハンドルに腕を乗せて、
ぼんやりと周りを見渡した。
そのときだった。
少し先の歩道で、
何かが素早く動いた。
犬だった。
首輪はついているのに、
リードはぶらぶらと地面を引きずっている。
どうやら外れてしまったらしい。
犬は嬉しそうに、
でもどこか慌てた様子で、
あっちへこっちへと走り回っていた。
その後ろを、
見知らぬ父親らしき人と、
小さな子どもが追いかけている。
「待て、待て!」という声が、
風に乗って届いた。
けれど犬は止まらない。
自由を手に入れたみたいに、
軽やかに走り続ける。
男の子はその光景を、
じっと見ていた。
不思議と、目が離せなかった。
そして、次の瞬間。
その犬が、
まっすぐこちらに向かってきた。
スピードを少し落としながら、
男の子のすぐそばで、
ぴたりと止まる。
黒い瞳が、
まっすぐに男の子を見つめていた。
「……どうしたの?」
思わず、
そんな言葉が口からこぼれる。
犬は何も答えない。
ただ、少しだけ首をかしげて、
じっと見ている。
まるで何かを確かめるように。
その一瞬は、
なぜか長く感じられた。
信号の待ち時間よりも、
ずっと静かな時間だった。
そこへ、
息を切らした父親が追いつく。
「すみません!」と短く声をかけながら、
犬の首輪をしっかりとつかむ。
犬は抵抗することもなく、
そのまま大人しくなった。
さっきまでの、
自由な風のような動きが、
嘘みたいに止まる。
リードがつけ直される。
小さな子どもが、
ほっとした顔で犬を見つめていた。
「ありがとうございました」
父親は軽く頭を下げて、
男の子の横を通り過ぎていった。
男の子は、
ただ小さくうなずいた。
やがて信号が青に変わる。
男の子は再び、
ペダルを踏み出した。
風が、
少しだけ強くなった気がした。
さっきの犬の目を、
ふと思い出す。
あの一瞬、
あの犬は何を見ていたのだろう。
そんなことを考えながら、
男の子は夕暮れの道を走っていった。
どこへ行くわけでもなく、
ただ少しだけ、
心が軽くなった気がしながら。
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