2026年3月20日金曜日

男の子と走り回る犬


夕方の光がやわらかく街を包んでいた。
男の子は自転車のペダルを軽く踏みながら、
ゆっくりとした速度で道を進んでいた。

急ぐ理由もなく、
ただ風を感じるためだけのような時間だった。

交差点に差しかかり、
信号が赤に変わる。

男の子は止まり、
ハンドルに腕を乗せて、
ぼんやりと周りを見渡した。

そのときだった。

少し先の歩道で、
何かが素早く動いた。

犬だった。

首輪はついているのに、
リードはぶらぶらと地面を引きずっている。

どうやら外れてしまったらしい。

犬は嬉しそうに、
でもどこか慌てた様子で、
あっちへこっちへと走り回っていた。

その後ろを、
見知らぬ父親らしき人と、
小さな子どもが追いかけている。

「待て、待て!」という声が、
風に乗って届いた。

けれど犬は止まらない。

自由を手に入れたみたいに、
軽やかに走り続ける。

男の子はその光景を、
じっと見ていた。

不思議と、目が離せなかった。

そして、次の瞬間。

その犬が、
まっすぐこちらに向かってきた。

スピードを少し落としながら、
男の子のすぐそばで、
ぴたりと止まる。

黒い瞳が、
まっすぐに男の子を見つめていた。

「……どうしたの?」

思わず、
そんな言葉が口からこぼれる。

犬は何も答えない。

ただ、少しだけ首をかしげて、
じっと見ている。

まるで何かを確かめるように。

その一瞬は、
なぜか長く感じられた。

信号の待ち時間よりも、
ずっと静かな時間だった。

そこへ、
息を切らした父親が追いつく。

「すみません!」と短く声をかけながら、
犬の首輪をしっかりとつかむ。

犬は抵抗することもなく、
そのまま大人しくなった。

さっきまでの、
自由な風のような動きが、
嘘みたいに止まる。

リードがつけ直される。

小さな子どもが、
ほっとした顔で犬を見つめていた。

「ありがとうございました」

父親は軽く頭を下げて、
男の子の横を通り過ぎていった。

男の子は、
ただ小さくうなずいた。

やがて信号が青に変わる。

男の子は再び、
ペダルを踏み出した。

風が、
少しだけ強くなった気がした。

さっきの犬の目を、
ふと思い出す。

あの一瞬、
あの犬は何を見ていたのだろう。

そんなことを考えながら、
男の子は夕暮れの道を走っていった。

どこへ行くわけでもなく、
ただ少しだけ、
心が軽くなった気がしながら。

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