2026年7月25日土曜日

黒猫と小さなスプーン

黒猫と小さなスプーン

古い喫茶店の片隅に、いつも同じ場所で丸くなっている黒猫がいた。名前があるのかどうかも分からない。常連たちは「くろちゃん」と呼んでいたし、店主は名前で呼ぶこともなく、ただ皿にミルクを注ぐだけだった。

その猫がなぜか気になり始めたのは、ある雨の午後のことだ。窓の外は灰色に滲み、店内には焙煎したての豆の匂いが立ちこめていた。私はいつものように隅の席に座り、手帳を広げながら何をするでもなく時間を潰していた。ふと視線を上げると、黒猫が私の前のテーブルに飛び乗り、小さなスプーンにじっと鼻を近づけていたのだ。

そのスプーンは、砂糖を掬うための、親指ほどの小さなものだった。銀色に光る柄には、細かい傷がいくつも刻まれていて、長年使い込まれたことが分かる。猫はしばらくそれを見つめたあと、前足でそっと押した。カチャリ、と乾いた音がテーブルに響いた。

なぜだか分からないが、その瞬間、時間が少し止まったような気がした。猫にとってそのスプーンが何を意味するのか、知る由もない。ただの好奇心かもしれないし、光を反射する金属に惹かれただけかもしれない。それでも私は、その小さな仕草の中に、何か言葉にならない物語を感じてしまった。

思えば、日々の暮らしというのは、こうした些細な出来事の積み重ねでできている。大きな事件や劇的な変化ばかりが人生を彩るわけではない。むしろ、誰かが気にも留めないような小さな瞬間――猫がスプーンに触れる、その程度のことの中にこそ、忘れがたい情景が宿っているのかもしれない。

あの日以来、私はその喫茶店に行くたびに、無意識のうちに黒猫の姿を探すようになった。そして見つけると、なぜかほっとする。彼が今日はどこで丸くなっているのか、今日は何に興味を示すのか。そんな小さな観察が、私の一日にささやかな輪郭を与えてくれる。

猫はきっと、私のことなど気にも留めていないだろう。それでいい。こちらが勝手に彼の存在に何かを見出しているだけなのだから。それでも、黒猫と小さなスプーンが重なったあの一瞬の光景は、今でも鮮明に思い出すことができる。

雨の匂い、コーヒーの湯気、そして小さな金属音。人生の中で意味を持つ記憶というのは、案外そんなふうに、静かに、何気なくやってくるものなのかもしれない。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


0 件のコメント:

コメントを投稿