2026年9月14日月曜日

木の上にいるメインクーン

木の上にいるメインクーン

昼下がりの庭に、大きなクスノキが一本立っている。

その太い枝の上に、モカという名のメインクーンが座っていた。まるで木の一部のように、大きな体を枝に沿わせて、ふさふさの尾を垂らしている。遠くから見ると、灰色と白の毛並みが木漏れ日と混じり合って、猫だとわかるまで少し時間がかかるほどだった。

モカがこの木に登ったのは、ほんの小さな出来事がきっかけだった。庭に迷い込んできた一匹の蝶を追いかけていたら、気づいたときには幹の半分ほどの高さまで来ていたのだ。蝶はもう見えなくなっていたが、モカは登るのをやめなかった。もう少し、もう少しと爪をかけているうちに、いつのまにか一番太い枝の上にたどり着いていた。

そこから見える景色は、いつも庭で見ているものとは違っていた。垣根の向こうに続く道、隣の家の屋根、遠くにぽつんと見える電柱。風が吹くと葉がさらさらと音を立て、モカの髭がかすかに揺れる。高いところは、思っていたよりも静かだった。

しばらくすると、家の中から飼い主の声が聞こえてきた。「モカ、どこにいるの?」

モカは声のする方に耳を向けたが、動こうとはしなかった。降りる方法がわからなかったわけではない。ただ、この枝の上の時間を、もう少しだけ味わっていたかったのだ。木の上から見る自分の家は、いつもより少し誇らしげに見えた。

やがて庭に出てきた飼い主が、木の上のモカを見つけて笑い声を上げた。「そんなところにいたのね」

その声を聞いて、モカはようやくゆっくりと体を起こし、爪を幹に食い込ませながら一歩ずつ降り始めた。地面に降りたつと、モカは何事もなかったように飼い主の足に頭をこすりつけた。

木の上から見た景色のことは、モカだけの小さな秘密になった。


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アキノタムラソウとマンチカン

アキノタムラソウとマンチカン

 夕暮れが近づくと、庭の隅に咲くアキノタムラソウの花穂が、風に揺れて小さく音を立てるような気がする。実際には音などしないのだけれど、そのくらい静かで、そのくらい繊細な揺れ方をするのだ。淡い紫の唇形の花が、茎の先に段になって並び、初秋の光を受けて少しだけ濃く見える。

 その花のそばに、いつからか一匹のマンチカンが座るようになった。短い足を折りたたんで、まるで最初からそこにいたかのように収まっている。名前はまだ誰も知らない。この庭に迷い込んできたのか、それとも近所の家の子なのか、はっきりしたことは分からなかった。ただ、夕方になるとアキノタムラソウの花の横に現れて、じっと庭を見つめている。

 庭の主である老人は、その猫を追い払うこともせず、ただ縁側に腰掛けて眺めていた。

「今日も来たのか」

 老人がそう呟くと、マンチカンは短い足でゆっくりと体勢を変え、花の揺れる方向へ顔を向けた。風がアキノタムラソウの茎を撫でるたびに、紫の花穂がわずかに傾き、猫の耳がぴくりと動く。まるで花と猫が、何か言葉にならない会話をしているようだった。

 老人は若い頃、この庭で妻と何度も夕涼みをした。妻が好きだった花のひとつが、このアキノタムラソウだった。「秋になると、こんな控えめな紫が咲くのよ」と、彼女はいつも嬉しそうに言っていた。今はもう、その声を思い出すことしかできない。

 だが不思議なことに、猫が花の傍らに座るようになってから、庭の時間の流れが少し柔らかくなったように感じられた。誰かがそこにいる、という気配だけで、寂しさの角が丸くなる。マンチカンは特別なことをするわけではない。ただ座って、花を見て、時々あくびをする。それだけなのに、老人の一日の終わりに、小さな灯りがともるようだった。

 ある日、強い風が吹いて、アキノタムラソウの花穂が大きく揺れた。花びらがいくつか散り、猫の鼻先にひとひら落ちた。マンチカンは驚いたように顔を上げ、それから花びらの匂いを確かめるように、そっと鼻を寄せた。老人はその様子を見て、久しぶりに声を出して笑った。

「お前も、この花が気になるか」

 猫は答えるはずもなく、ただ短い尻尾をゆっくりと振った。それでも老人には、十分な答えのように思えた。

 秋が深まるにつれ、アキノタムラソウの花はやがて終わりを迎えるだろう。けれど、その季節が来るまでの間、マンチカンは変わらずそこに座り続けるに違いない。花と猫、老人と静かな庭。誰かに説明できるような大きな出来事は何も起きない。ただ、そこには確かに、穏やかな時間だけが積み重なっていく。

 夕暮れの光が薄紫の花にかかり、短い足の猫がその隣でまどろむ。それだけで、この庭はまだ、十分に美しいのだった。


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黒猫とアキノキリンソウ

黒猫とアキノキリンソウ

山の斜面に、黄色い花が群れて咲いている。名前をアキノキリンソウという。地味だけれど、秋の光を浴びるとどこか金色に輝いて見える花だ。

その斜面の下に、小さな祠があった。長い石段を上りきったところに、ぽつんと佇む古いお社。参る人もまばらで、苔むした狛犬が二体、静かに時を数えているだけだった。

そこに一匹の黒猫が住み着いていた。

誰が呼んだわけでもないが、近所の人々はその猫を「クロ」と呼んでいた。クロは祠の縁の下を寝床にして、日が高くなると決まってアキノキリンソウの咲く斜面に現れた。花の間に体を潜り込ませ、じっと動かずに耳だけを動かしている。何を待っているのか、誰も知らなかった。

ある年の九月、麓の町に暮らす老人が、久しぶりにその石段を上ってきた。膝が悪くなってからは足が遠のいていたが、亡くなった妻の月命日だけは欠かさなかった。

老人が息を切らして祠の前に立つと、黄色い花の海の中から、音もなく黒い影が現れた。クロだった。

「お前、まだここにおったんか」

老人がしゃがみこんで声をかけると、クロは警戒するでもなく、ゆっくりと歩み寄ってきた。そして老人の足元に体をこすりつけると、そのままアキノキリンソウの中に戻っていった。

老人はふと、亡き妻がこの花を好きだったことを思い出した。「地味だけど、健気でしょう」と、彼女はいつも斜面を見上げて言っていた。派手な花のように誰かに褒められるわけでもなく、それでも毎年律儀に、同じ場所で同じ色を咲かせる花。

老人は線香をあげ、手を合わせた。振り返ると、クロは花の中に座り込んだまま、こちらをじっと見つめていた。まるで、何もかも承知しているとでもいうように。

「また来るわ」

老人がそう言うと、クロはひとつ、大きなあくびをした。まるで「待っている」とでも答えるかのように。

風が斜面を撫でていく。アキノキリンソウが一斉に揺れて、黄色い波のようにさざめいた。その中心に、動かない黒い点がひとつ。

季節はめぐり、また来年もこの花は咲くだろう。そのときも、きっとこの猫は同じ場所で、誰かの帰りを待っているに違いない。


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橋とメインクーン

橋とメインクーン

古い石造りの橋が、川の上に静かに架かっていた。

いつ作られたのかは、もう誰も覚えていない。欄干には苔がびっしりと生え、隙間からは小さなシダが顔を出している。夏の終わりの午後、橋は西日を受けて、ほんのりと橙色に染まっていた。

その橋の真ん中に、一匹のメインクーンが座っていた。

大きな体、豊かな毛並み、そして少し眠たげな金色の目。名前はまだない。誰かに飼われているわけでもなく、かといって完全な野良猫でもない。この橋の周辺の人々は、いつからかその猫を「橋の主」と呼ぶようになっていた。

猫は毎日、決まった時間にこの橋にやってくる。そして、欄干の隙間から川面を見下ろし、じっと動かなくなる。

川は緩やかに流れていた。水面には夕方の光が反射し、細かな光の粒がいくつも揺れている。その光を、猫はいつまでも眺めていた。まるで、水の中に何か大切なものを探しているかのように。

橋を渡る人々は、猫に気づくと、たいてい足を止めた。

「あ、今日もいるね」

そう言って微笑む老婦人。毎朝この橋を渡って市場へ行く彼女は、猫のために小さな煮干しを持ち歩くようになっていた。猫はそれを、急ぐでもなく、ゆっくりと味わって食べる。まるで、時間というものをこの橋の上だけ、特別に長く使えるとでも知っているかのように。

「今日も橋の番、頑張ってるな」

自転車で通り過ぎる青年は、そう声をかけながらも決して立ち止まらない。それでも彼は、橋を渡るたびに必ず視線を猫に送った。まるでそこに猫がいることが、当たり前の風景の一部になっているかのように。

橋というものは、いつも二つの場所をつなぐためにある。こちら岸とあちら岸。過去と未来。誰かと誰か。

けれど、この猫にとって橋は、つなぐための場所ではなく、ただ「そこにいるための場所」だった。急いで渡る必要もなく、目的地を決める必要もない。橋の真ん中という、どちらでもない場所に留まり続けることこそが、この猫にとっての生き方だった。

ある夕暮れ、小さな女の子が母親と手をつないで橋を渡ってきた。

「ねこさん!」

女の子は駆け寄ろうとしたが、母親に手を引かれて止まった。猫はちらりと女の子を見て、そのまま視線を川へと戻した。女の子は少し残念そうにしながらも、橋を渡りきる直前、もう一度振り返った。

猫は、まだそこにいた。

夜になると、橋には小さな灯りがともる。古い街灯が一つだけ、ぼんやりとオレンジ色の光を落とす。その灯りの下で、猫はゆっくりと体を丸め、眠りにつく準備をする。

川のせせらぎと、遠くの家々から漏れる灯りと、時折通り過ぎる人の足音。それらすべてを、猫は静かに受け止めていた。

橋は今日も、変わらずそこにあった。

そして、その真ん中には、変わらずメインクーンが座っていた。

明日もまた、誰かがこの橋を渡るだろう。急いでいる人も、のんびり歩く人も、悩みを抱えている人も、笑顔で歩く人も。それぞれの理由で、それぞれの速度で、この橋を渡っていく。

けれど、猫だけは変わらない。

橋の真ん中で、川を見つめ、光を見つめ、時の流れをただ静かに見つめている。

それは、まるで橋そのものが持つ役目を、静かに引き継いでいるかのようだった。人と人、時と時をつなぐのではなく、ただそこにあり続けることで、誰かの心にそっと灯りをともす——そんな役目を。

橋とメインクーン。

その組み合わせに、特別な意味などないのかもしれない。けれど、あの場所を知る人々にとっては、橋の風景の中に猫がいることが、いつしかかけがえのない日常になっていた。

今日も、橋は静かに川の上に架かっている。

そして、その真ん中には、きっとあの猫が座っている。


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マンチカンという猫と水たまり

マンチカンという猫と水たまり

 雨上がりの午後だった。

 庭の隅にできた小さな水たまりに、マンチカンのミルクはそっと顔を近づけていた。短い足で不器用に踏み出すたび、水面がゆらゆらと揺れる。

「なんだろう、これ」

 そんな声が聞こえてきそうな、きょとんとした顔だった。

 水たまりに映る自分の姿を見て、ミルクは一瞬びくりと後ずさる。丸い瞳がまんまるに見開かれ、耳がぴんと立った。もう一匹の猫がそこにいると思ったのかもしれない。おそるおそる、また一歩近づいてみる。

 前足でそっと水面をつついてみると、映っていた「もう一匹の猫」は波紋の中に崩れて消えた。ミルクは驚いたように飛び退いたが、すぐにまた興味津々な顔で戻ってくる。この繰り返しが、なんとも愛らしい。

 空はまだ厚い雲に覆われていたが、雲の切れ間から差し込んだ光が水たまりの表面をきらきらと照らした。その光を追いかけるように、ミルクの視線が上下に動く。短い脚で踏ん張りながら伸び上がる姿は、まるで水たまりの中の光を捕まえようとしているようだった。

 やがて満足したのか、ミルクは水たまりのふちにちょこんと座り込んだ。濡れた前足をぺろぺろと舐めながら、時折り水面を見つめる。その仕草はどこか誇らしげで、まるで「今日はこの水たまりを制覇した」とでも言いたげだった。

 雨上がりの庭に、小さな冒険者がいた。

 水たまりひとつでも、マンチカンにとっては十分すぎるほどの遊び場になる。短い足でぴょこぴょこと歩き回り、時に驚き、時に喜び、そしてまた新しい発見に胸を膨らませる。そんな何気ない日常の一コマが、見ている側の心まで穏やかにしてくれる。

 水たまりが乾く頃には、ミルクはとっくに次の遊びを見つけているのだろう。庭の隅、木の陰、風に揺れる葉っぱ――彼女の世界は、いつだって好奇心でいっぱいだ。


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黒猫と屋根と青い空

黒猫と屋根と青い空

古い商店街の外れに、瓦屋根の続く一角がある。

その一番端、ひときわ傾斜のゆるい屋根の上に、その黒猫はいつも座っていた。まるで自分の指定席だとでも言うように、決まった時間に現れては、決まった角度で空を見上げる。

夏の朝だった。

まだ日差しは柔らかく、瓦は熱を持ち始めたばかり。黒猫はゆっくりと屋根の稜線を歩き、いつもの場所で足を止めた。ふさふさとした尻尾を体に巻きつけ、金色の瞳を細めて頭上を見る。

そこには、雲ひとつない青が広がっていた。

視界を遮るものは何もない。電線が一本、画面を横切るように空を分けているだけで、あとはただどこまでも続く青だけだった。黒猫にとって、この屋根はきっと特別な場所なのだろう。地上の喧騒からほんの数メートル離れただけで、世界はこんなにも静かになる。

下の路地では、自転車のベルが鳴り、誰かが誰かに挨拶をしている。豆腐屋のラッパの音が遠くに響く。けれど屋根の上には、そうした音のかけらだけが、風に混じって届くだけだった。

黒猫はふと、瓦の熱を前足で確かめるように押した。まだ大丈夫、そう判断したのか、ゆっくりと体を横たえる。丸くなるでもなく、伸びるでもなく、ちょうど屋根の傾斜に沿うような姿勢で、青空をひとりじめするように寝そべった。

通りを歩いていた老人が、ふと足を止めて屋根を見上げた。

「今日もいるな」

そう呟いて、また歩き出す。黒猫は特に反応することもなく、ただ尻尾の先だけをゆらりと揺らした。褒められても、気にかけられても、この場所での時間は変わらない。それが黒猫の流儀だった。

日が高くなるにつれ、空の青は少しずつ濃さを増していく。入道雲のかけらのようなものが、遠く西の方角にぽつりと浮かんでいるのが見えた。まだ夏はこれからが本番だと、その白い塊が教えてくれているようだった。

黒猫はしばらくそれを眺めていたが、やがて興味を失ったように目を閉じた。

屋根はあたたかく、風はちょうどよく、空は変わらず青い。

それだけで、十分だった。

誰かに見つけられても、見つけられなくても、この場所はきっと明日も、黒猫を待っている。

短い物語だが、載せる際は写真や導入文を添えて、いつものスタイルに合わせて調整してもらえればと思う。


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2026年9月13日日曜日

メインクーンと小川

メインクーンと小川

山あいの村を抜けると、細い小川が音を立てて流れていた。

その日、村の外れに住む老人の家の庭先に、大きな猫がふらりと現れた。ふさふさとした尻尾、耳の先に伸びた飾り毛、そして体の大きさは並みの猫の倍はあろうかというメインクーンだった。誰の飼い猫かは分からない。ただ、夏の終わりの光の中に、その猫はまるで昔からそこにいたかのように佇んでいた。

猫は迷うことなく庭を抜け、裏手の小道を下っていった。そこには、村の子どもたちが「かっぱ川」と呼ぶ小さな川が流れている。水は驚くほど澄んでいて、底の小石の一つひとつまで数えられそうだった。

メインクーンは川べりに座り込むと、水面をじっと見つめた。流れに揺れる木漏れ日が、猫の金色の瞳の中で小さく踊っている。

やがて猫は、前足をそっと水に浸した。冷たさに一瞬耳がぴくりと動いたが、嫌がる様子はない。むしろ気に入ったのか、もう片方の足も浸し、川底の小石を確かめるように探り始めた。

「おや、お前さんもこの水が好きか」

いつの間にか、老人が縁側から声をかけていた。猫は振り返りもせず、ただ尻尾の先をゆらりと動かして応えた。まるで「もちろんだ」とでも言うように。

その日から、メインクーンは毎日のように小川へ通うようになった。朝露がまだ草に残る時間、誰もいない川べりに一匹で座り、流れる水音に耳を澄ませる。時折、川面を横切る小さな魚影を見つけると、大きな体には似合わぬ真剣な顔つきで、じっと動かなくなった。

村の子どもたちはいつしかその猫を「小川の主」と呼ぶようになった。誰かが撫でようと手を伸ばしても、逃げも威嚇もせず、ただ静かに受け入れる。それでいて、決して誰かの家に留まろうとはしなかった。夕方になると、来た時と同じようにふらりと森の奥へ消えていくのだった。

秋が近づき、川の水が少し冷たさを増した頃。老人はいつものように縁側に座り、庭の向こうを眺めていた。すると、いつもの時間にメインクーンがやってきて、川べりではなく、まっすぐ老人の元へ歩いてきた。

そして初めて、老人の膝にそっと頭をこすりつけた。

「そうか。今日はここでいいのか」

老人がそう呟くと、猫は満足そうに丸くなり、遠くから聞こえる小川のせせらぎに耳を傾けながら、静かに目を閉じた。

風が木々を揺らし、川の水音だけが、いつまでも変わらずに続いていた。


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マンチカンという猫の月見

マンチカンという猫の月見

夜風がすこし冷たくなってきた九月の終わり、縁側の窓を開けると、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。

マンチカンのまるは、短い脚をふんばって窓辺にちょこんと座ると、じっと空を見上げた。いつもならおもちゃを追いかけて部屋じゅうを走り回っているまるが、今夜だけはやけに静かだった。

「まる、お月見する?」

飼い主がそう声をかけると、まるはひげをぴくりと動かしただけで、答えるかわりに月から目を離さなかった。縁側には、飼い主が用意した小さな月見団子と、すすきを一本挿した花瓶が置かれている。まるはその団子のにおいを一度くんくんと嗅いだが、すぐに興味をなくしたように、また窓の外へと視線を戻した。

月の光が畳の上に細長く伸びて、まるの丸い背中をやわらかく照らしている。短い脚を体の下にしまい込み、まんまるになったその姿は、まるで月そのものが縁側に転がり込んできたようだった。

しばらくすると、まるは小さくあくびをひとつして、飼い主のひざの上にどすんと乗ってきた。温かくて柔らかい重みが伝わってくる。まるはそのまま丸くなり、月を見ていたときと同じ静かな目で、今度は飼い主の顔をじっと見上げた。

「今日はゆっくり月を見ような」

そうつぶやくと、まるは満足したように目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。空にはあいかわらず大きな月が浮かんでいて、すすきの穂が風に揺れるたび、かさかさと小さな音を立てていた。

短い脚の小さな猫と、静かな夜と、まんまるの月。特別なことは何も起きなかったけれど、それだけでじゅうぶんに満たされた夜だった。


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黒猫と街灯

黒猫と街灯

夕暮れが群青色に変わる頃、路地の角にぽつんと灯る一本の街灯があった。まだ夜には早い時間だが、そこだけはすでに小さな光の輪を作り出している。

その光の下に、黒猫がいた。

いつからそこにいるのか、誰も知らない。近所の人々は「街灯の猫」と呼んで、通りすがりに軽く会釈のような視線を送るだけだった。黒猫の方も、誰かに構ってほしいわけではないらしい。ただ静かに座り、時折尻尾の先だけをゆっくりと揺らしながら、道の向こうを眺めている。

その日も、黒猫はいつもの場所にいた。仕事帰りの人々が足早に通り過ぎていく中、一人の女性がふと足を止めた。

「今日も、いるんだね」

独り言のようにつぶやいて、女性はベンチに腰を下ろした。特に用事があるわけではない。ただ、この街灯の下だけ、なぜか時間の流れが少し遅くなるような気がして、つい立ち止まってしまうのだった。

黒猫は女性の方を一瞥すると、また視線を道の先へと戻した。歓迎するでも拒むでもない、その距離感がちょうどよかった。

風が吹くと、街灯の明かりがわずかに揺れ、黒猫の毛並みに橙色の陰影を作った。まるで光そのものが黒猫の輪郭をなぞっているようだった。女性は鞄からペットボトルの蓋を開け、ひと口飲んだ。今日は些細なことでうまくいかないことが続いた一日だった。誰かに話すほどでもない、けれど胸の奥に小さな重さとして残るような出来事の連続。

「なんでそんなに落ち着いていられるの」

黒猫に問いかけても、答えが返ってくるはずもない。ただ、耳がぴくりと動いただけだった。それでも女性には、その仕草が「聞いているよ」と言っているように思えた。

しばらくすると、どこからか自転車のベルの音が響き、子どもたちの笑い声が通り過ぎていった。黒猫はその賑やかさにも動じることなく、じっと座り続けている。街灯の光は、動かないものにこそよく似合う。忙しなく動き回る者たちを照らしながら、自分自身は静止したまま、ただそこにあり続ける。

女性は立ち上がり、軽く伸びをした。

「また明日」

そう言って歩き出すと、黒猫は初めて小さく鳴いた。振り返ると、黒猫はもう女性の方を見てはおらず、また道の先の暗闇をじっと見つめていた。何を待っているのか、何を見ているのか、それは誰にも分からない。

街灯の光は、今夜も変わらず一定の強さで灯り続けている。黒猫がそこにいる限り、その光の輪は、道行く人々にとって少しだけ特別な場所であり続けるのだろう。

夜がゆっくりと深まっていく中、黒猫と街灯は、これからも誰かの一日の終わりに、静かに寄り添い続ける。


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ヒガンバナとメインクーン

ヒガンバナとメインクーン

畦道の向こうに、あの花が咲いていた。

彼岸花。誰が呼んだわけでもないのに、毎年きっかり同じ時期に、同じ場所で、燃えるような赤をひろげる。曼珠沙華とも呼ばれるその花は、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。棘々しいほどまっすぐに伸びた茎の先で、細い花弁が四方八方へ弾けるように咲く姿は、美しいというより、どこか気迫めいていた。

その花の根もとに、大きな影がひとつ、じっと座っていた。

メインクーンのハルだった。

飼い主の家からゆっくり歩いて五分ほどの畦道。ハルは決まってこの時期になると、誰に連れられるでもなく、ひとりでここまで歩いてくる。ふさふさした尻尾を体に巻きつけ、緑と金の混じった瞳を細めて、赤い花の群れをただじっと見つめる。まるで何かを弔うように、あるいは何かを思い出しているように。

ハルの体は、普通の猫の一・五倍はあった。がっしりとした骨格に、長く豊かな被毛。耳の先には房のような飾り毛が立ち、まるで山猫の血が混じっているのではないかと思わせる風格があった。だが気性は驚くほど穏やかで、近所の子どもたちにもよく懐いていた。「犬みたいな猫」と呼ばれるのは、その人懐こさゆえだった。

けれど、彼岸花の前でだけは、ハルは誰にも心を開かなかった。

「またここにいたのね」

声をかけたのは、隣に住む老婆、キヨだった。腰の曲がった背をさらに折り曲げて、ハルの隣にゆっくりと腰を下ろす。彼女は毎年この時期、ハルがここに座っているのを見つけては、同じように隣に座るのを習慣にしていた。

「この花、昔はね、田んぼのねずみよけに植えたんだよ。毒があるからね。でも今じゃ、誰もそんなこと気にしちゃいない。ただ、秋になると勝手に咲いて、勝手に散っていく」

ハルは答えない。ただ尻尾の先をわずかに揺らして、花の赤を見つめ続けていた。

キヨの亡くなった夫は、生前この道をよく散歩していた。彼が最後に見た秋も、きっとこの赤い群れが咲いていたはずだった。キヨはそのことを、ハルにだけ話す。人間には話せないことも、この大きな猫の隣でなら、なぜか言葉にできる気がした。

「あんたも、誰かを待ってるのかい」

ハルの瞳が、一瞬だけキヨのほうを向いた。それから、また花のほうへ戻る。答えの代わりに、喉の奥で小さく鳴らす音が聞こえた。ゴロゴロという、あの穏やかな音。

夕暮れが近づくと、赤い花はいっそう色を濃くした。西日を受けて、燃えているようにも、血のようにも見えるその色は、しかしどこか静かで、悲しみよりも懐かしさに近い何かを漂わせていた。

ハルはゆっくりと立ち上がり、大きな体を伸ばした。もう帰る時間だと分かっているかのように、来た道を振り返る。キヨも重い腰を上げ、二人並んで畦道を戻り始めた。

「また来年、会いましょうね」

キヨがそう呟くと、ハルは足を止め、一度だけ振り返った。彼岸花の群れは、夕闇の中でなお赤く燃えていた。まるでその一瞬だけ、時間が巻き戻ったかのように。

翌朝、彼岸花はいつもと変わらずそこに咲いていた。しかしハルの姿は、もうそこにはなかった。季節の花が咲き終わるまでの、ほんのわずかな時間だけ交わされる、名前のない約束。それは今年もまた、静かに果たされたのだった。


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